第86話:月からの通信と、アイアンサイドの決断
昭和三十三年(一九五八年)夏。
アメリカの威信を懸けたアポロ計画が、月面で九条の無人探査機と遭遇したという現実は、全世界のテレビモニターを通じて生中継され、隠蔽の余地など一切残されていなかった。
ワシントンD.C.、ホワイトハウスの大統領執務室。
数十分前まで歓喜に沸いていたその部屋は今、まるで冷水に沈められたかのような重く息苦しい沈黙に包まれていた。
「……大統領、すぐに放送を打ち切らせましょう! これはソ連か何かの捏造映像だという声明を出すべきです! アメリカの偉大な一歩を、極東の企業の宣伝に使われるなど断じて許されません!」
国防長官が蒼白な顔で、しかし必死の形相で叫んだ。
彼にとって、国家予算を傾けて造り上げた巨大ロケットが、マスドライバーで撃ち出された「ただの無人の装甲車」に遅れをとったという事実は、どうしても受け入れがたい屈辱であった。
だが、執務机に深く腰掛けたアイアンサイド大統領は、ゆっくりと首を横に振った。
「見苦しい真似はよせ、長官。……全世界の何十億という人間が、あの『KRD』のエンブレムを同時に目撃したのだ。今更ごまかしたところで、世界中から道化として嘲笑われるだけだ」
アイアンサイドは両手で顔を覆い、深く、絶望的なため息を吐き出した。
超大国アメリカの誇りは完全に粉砕された。
自分たちが血と汗と莫大な税金を注ぎ込み、命懸けで辿り着いた神の領域は、すでに九条芳信という怪物が、遠隔操作で砂遊びをしている裏庭に過ぎなかったのだ。
「我々は負けたのだ。……国家間の戦争ではなく、ただ一人の男の『速度に対する狂気』にな」
アイアンサイドは顔を上げ、執務机の奥に設置された、帝都・東京と直接繋がる赤い受話器を見つめた。
「ここで九条を敵に回せば、我々は永遠に地球の重力に縛り付けられたまま、彼らが宇宙を支配していくのを下から見上げるだけの惨めな国家に成り下がる。……生き残るためには、プライドを捨てて『家賃』を払うしかない」
大統領の決意を込めた言葉に、国防長官は力なく項垂れた。
アイアンサイドは赤い受話器を取り上げ、日本政府ではなく、品川の九条本社へ直接繋ぐようオペレーターに命じた。
同時刻、帝都・品川。
九条技術研究所の最上階で、秀一は芳信が淹れた極上のコーヒーを味わいながら、鳴り響く専用回線のベルを満足げに見つめていた。
「……随分と早い決断だったな。もう少し、泣き喚いて事実を否定すると思っていたが」
秀一が受話器を取ると、太平洋の向こう側から、疲労困憊した、しかし威厳を保とうとする大統領の声が聞こえてきた。
『……九条男爵。月面での貴国の……いや、貴社の見事な先行投資に、最大の敬意を表する』
「お褒めにあずかり光栄です、ミスター・プレジデント。ですが、我々はただの部品テストを行っていただけでしてね。歴史的な『人間としての第一歩』は、間違いなくアメリカの偉業ですよ」
秀一の慇懃無礼な返答は、アイアンサイドの胸をさらに鋭く抉った。
『……単刀直入に言おう。我々アメリカ合衆国は、今後の月面開発および宇宙進出において、九条のインフラに全面的に依存することを条件に、貴社との「技術協力」を要請したい』
それは、事実上の「白旗」であった。
九条の規格に縛られることを拒み、独自に月を目指したアメリカが、自らの足で月に立ったその瞬間に、九条の技術的・物理的な支配を完全に受け入れたのである。
「素晴らしい決断です。我々としても、野蛮な火薬で宇宙を汚されるのは本意ではありませんからね。チンボラソ山の軌道エレベーターが完成した暁には、アメリカの飛行士の方々も、安全かつ快適に月面基地へご案内しましょう。……もちろん、適切な『利用料』は頂きますが」
『……分かっている。アメリカは、貴社の良きテナント(借地人)となろう』
秀一が受話器を置くと、アメリカの覇権という巨大な獲物を完全に飲み込んだ充足感が、静かな執務室に満ちた。
「これで、宇宙におけるアメリカの資金と労働力は、完全に我々のコントロール下に入った。彼らは嬉々として、我々のために月面基地を建設してくれるだろう」
秀一の冷徹な言葉に、ソファーで図面を引いていた芳信が、欠伸をしながら顔を上げた。
「政治の駆け引きはどうでもいい。兄さん、月面から送られてきた地質データを早く俺の端末に回してくれ」
芳信の瞳には、アメリカ合衆国の降伏など微塵も映っていなかった。
「……お前は相変わらずだな。大統領の白旗よりも、月の砂の方が重要か」
「当たり前だ。月の砂は地球の砂漠と違って、風化していないからガラスの破片のように鋭利だ。普通のゴムタイヤじゃ、あっという間に削り取られちまう」
芳信は、手元の製図板に新しいタイヤの構造を描き込みながら、狂信的な笑みを浮かべた。
「ピアノ線で編み込んだ金属メッシュのタイヤと、重力六分の一に合わせた特殊なサスペンションが必要だ。……忙しくなるぞ。あの砂場で、世界一イカれたレースを開催するための準備をしなきゃならないからな」
三十八万キロメートル彼方の真空の世界。
アメリカの宇宙飛行士たちは、ヒューストンから下された「九条のローバーには一切干渉せず、現状を維持せよ」という屈辱的な命令に唇を噛み締めながら、ただ黙ってその黒光りする機械を眺めていた。
人類が初めて月に到達したこの日。
それは人類の偉大な飛躍ではなく、極東の化け物たちが宇宙空間を完全に「私物化」したことを証明する、静かで決定的な戴冠式に過ぎなかったのであった。




