第85話:アポロの絶望と、月面の足跡
昭和三十三年(一九五八年)夏。
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。
ホワイトハウスの大統領執務室は、息が詰まるような沈黙と、張り詰めた熱気に支配されていた。
アイアンサイド大統領は、執務机に身を乗り出すようにして、設置された巨大なモニターを食い入るように見つめていた。
画面には、白黒の粗い映像ではあるが、間違いなく地球外の光景――荒涼としたクレーターが連なる灰色の世界が映し出されている。
『ヒューストン、こちらイーグル。……静かな海に舞い降りた』
スピーカーから、ノイズ混じりの宇宙飛行士の肉声が響いた。
その瞬間、大統領執務室のみならず、アメリカ全土、いや、世界中でテレビ画面を見つめていた何十億という人々が、爆発的な歓声を上げた。
「やった……! ついに成し遂げたぞ!」
アイアンサイドは両拳を握り締め、感極まったように立ち上がった。
九条芳信が地球の低軌道を見えざる盾で封鎖し、軌道エレベーターという理不尽なまでのインフラを建造し始めている中。
アメリカは九条のインフラに一切頼らず、莫大な国家予算と幾多の失敗、そして宇宙飛行士たちの血と汗の結晶である巨大な化学ロケットによって、ついに一足飛びに『月』へと到達したのだ。
画面の中では、分厚い宇宙服に身を包んだ船長が、ゆっくりとタラップを降りていく。
『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』
歴史に刻まれる名言と共に、アメリカの宇宙飛行士が、月面にその足跡を刻み込んだ。
そして、真空の月面に、アメリカの誇りである星条旗が立てられる。
「見たか、九条……! これがアメリカのフロンティア・スピリットだ! 我々は自らの力で重力の檻を抜け出し、お前たちの監視網のさらに上、神の領域へと到達したのだ!」
アイアンサイドは、画面越しの星条旗に向かって涙ながらに叫んだ。
人類の英知と勇気が、極東の化け物の支配を打ち破った、歴史的な勝利の瞬間であると、アメリカ国民の誰もが疑っていなかった。
しかし、その熱狂は、わずか数十分後に「未知の恐怖」と「絶望」へと塗り替えられることになる。
月面での船外活動を続けていた宇宙飛行士たちが、着陸船から少し離れたクレーターの縁を越えた時のことだった。
『ヒューストン……。軌道上の観測データにない、奇妙な地形を発見した。……いや、地形じゃない』
船長の声が、明らかな困惑と緊張を帯びて震え始めた。
彼らのヘルメットに搭載されたカメラの映像が、ヒューストンの管制室、そして全世界のテレビモニターへとリアルタイムで送られてくる。
(皮肉なことに、この鮮明な月面からの生中継を可能にしているのは、九条の衛星通信網であったが、この時のアメリカ人は誰もそのことを気にする余裕はなかった)
『キャプテン、あれを見ろ! 轍だ! キャタピラの跡がある!』
もう一人の飛行士が絶叫した。
画面の奥、灰色のレゴリス(月の砂)の表面に、タイヤのトレッドパターンが、はっきりと刻み込まれていたのだ。
それは、ソ連の探査機が残すような無骨なものではなかった。
洗練された、どこかで見たことのある極めて効率的な溝の形。
宇宙飛行士たちが恐る恐るその轍を辿っていくと、クレーターの底で、それは「動いていた」。
『……ジーザス。ヒューストン、我々は……一番乗りじゃなかった』
カメラが捉えたのは、太陽光を反射して黒光りする、流線型の装甲に覆われた巨大な無人多輪ローバーであった。
一切の無駄を省いたその美しい機械は、真空の月面で音もなく稼働し、ドリルで岩盤を砕き、アームで正確に鉱物を採取しては後部のコンテナへと収納する作業を、完全に自動で繰り返していた。
そして、そのローバーの側面に誇らしげに刻まれていたのは、星条旗でも鎌と槌のマークでもない。
見慣れた『KRD(九条レーシング・ディビジョン)』のエンブレムであった。
「な……なんだ、あれは……!」
ホワイトハウスで、アイアンサイド大統領が信じられないものを見るような目で画面を指差し、膝から崩れ落ちた。
「なぜだ……! なぜあんな所に、九条の機械がある! 奴らはまだ、人間を月へ送るロケットなど造っていないはずだ!」
大統領の絶叫に、国防長官が蒼白な顔で答えた。
「……人間を、送る必要がなかったのです。奴らは、チンボラソ山の電磁マスドライバーを使って、あのような無人探査機を、何ヶ月も前に直接月へ向けて撃ち出していたに違いありません……!」
生命維持装置も、帰還のための燃料も必要としない、純粋な機械の塊。
マスドライバーの強烈なGに耐えられる無人の装甲車であれば、アメリカが苦労して造り上げた巨大ロケットより遥かに安いコストで、容易く月面に到達できる。
画面の中の九条のローバーは、呆然と立ち尽くすアメリカの宇宙英雄たちに一瞥もくれることなく、ただ淡々と、プログラムされた通りに月面の資源採掘テストを続けている。
同時刻、帝都・品川。
九条技術研究所の最上階で、芳信と秀一は、極上のコーヒーを味わいながらその世紀の中継映像を眺めていた。
「……お前、いつの間にあんなものを月に撃ち込んでいたんだ?」
秀一が、画面に映る自社のローバーを見ながら面白そうに尋ねた。
「半年くらい前かな。チンボラソのマスドライバーの出力テストのついでに、試作型の無人機をいくつか月に向けて放り投げておいたんだよ」
芳信は、手元の製図板に向かいながら、全く興味がなさそうに答えた。
「何のためにだ? 月の鉱物資源の先取りか?」
「違う。ただの『土壌調査』だ」
芳信は鉛筆を止め、モニターに映る灰色の月面を指差した。
「重力六分の一の環境で、あの細かな砂の上を走る時、タイヤの摩擦係数がどう変化するのかを知りたかった。……将来、あそこで車を走らせるなら、専用のサスペンションとタイヤのコンパウンドをゼロから設計し直さなきゃならないからな」
「……お前は本当に、狂っているな」
秀一は呆れ果ててため息をついた。
アメリカが国家の存亡と何兆円という莫大な血税を懸けて、ようやく辿り着いた「人類の新たなフロンティア」。
それは九条芳信にとって、遠い未来に己の車を走らせるための、ただの「砂場」に過ぎなかったのだ。
ホワイトハウスの執務室では、アイアンサイド大統領が、画面の中で無心に砂を掘り続ける九条のローバーを前に、完全に言葉を失っていた。
アメリカの誇りを懸けた一歩は、極東の化け物たちがすでに整地し終えた建設現場への、ひどく遅れた訪問でしかなかった。
圧倒的な技術力と、それを動かす動機の狂気的なまでの「違い」。
星条旗が虚しく月面に立つその横で、アメリカ合衆国の覇権の夢は、音を立てて完全に崩れ去ったのであった。




