第84話:地球のへその緒と、静止軌道の野望
昭和三十二年(一九五七年)。
南米エクアドル、赤道直下にそびえる標高六千メートル超の巨大火山、チンボラソ山。
山麓に広がる集落の広場では、民族衣装を纏った子供たちが、九条家が無償で建設した巨大な浄水プラントから湧き出る、透き通った冷たい水を美味しそうに飲んでいた。
かつては泥水を啜り、疫病に怯えていた彼らの生活は、極東からやって来た『クジョウ』という名の神々によって劇的に豊かなものへと変わった。
その代償として、彼らの崇めていた霊峰は、人類史上最大の土木工事の現場へと作り変えられていた。
「……来るぞ」
広場の木陰で休んでいた老人が、空を見上げて呟く。
数秒後。
抜けるような青空を物理的に引き裂く、鼓膜を破らんばかりの強烈な轟音が山を震わせた。
それは雷鳴ではない。
山の斜面を這うように建設された全長数十キロに及ぶ巨大な真空チューブ――『電磁マスドライバー』から、亜光速まで電磁加速された射出カプセルが、大気圏に飛び出した瞬間に発するソニックブーム(衝撃波)の音である。
カプセルは大気との摩擦で一瞬だけプラズマの閃光を放ち、瞬く間に成層圏の彼方へと消えていく。
「神様が、星へ供物を捧げているんだ」
老人は祈るように十字を切った。
マスドライバーが放つ轟音は、もはやこの村の日常であった。
だが、彼らは知らない。
その供物(宇宙ステーションへの物資)と引き換えに、今、宇宙から地球へ向けて、恐るべきものが降りてきているということを。
同じ頃。
チンボラソ山の山頂、空気が薄く空が紺色にすら見える極寒の特設プラットフォームに、重装備の防寒着に身を包んだ真田源が立っていた。
「風速、許容範囲内。……赤道上の静止軌道『天照』との同期、ズレなし」
真田はゴーグルの奥で血走った目を細め、手元の計器と、遥か上空を交互に睨みつけていた。
彼の視線の先には、肉眼では何も見えない。
だが、レーザー誘導の計測器を通せば、宇宙空間から地球へ向けて、一本の「光の筋」が真っ直ぐに降りてきているのが分かる。
それは、宇宙ステーション『天照』の無重力工場で紡がれ、数万キロメートルの彼方から垂らされている『完璧なカーボンナノチューブ』のケーブルであった。
髪の毛より細く、鋼鉄の数百倍の引張強度を持つその糸は、地球の重力によって生じる欠陥を一切持たない。
「……地球の自転による遠心力と、重力の引張力が釣り合う、完璧なテンション(張力)だ。社長の狂った計算式は、小数点以下まで完璧すぎる」
真田は吐く息を白く染めながら、無機質な声に微かな戦慄を滲ませた。
軌道上から垂らされたこの「見えざる糸」を、地上の基部施設に設置された巨大な電磁キャッチャーで正確に受け止め、固定する。
それは、針の穴に何万キロも先から糸を通すような、ミリ単位の狂いも許されない神業であった。
「キャッチ・システム、作動。……地球と宇宙の結合、完了しました」
真田の合図と共に、山頂の巨大なアンカーブロックが低い駆動音を立て、見えない糸を大地にしっかりと食い込ませた。
人類が初めて、地球の重力という檻に物理的な「へその緒」を繋いだ瞬間であった。
「ご苦労だったな、真田。……これでようやく、一本目の柱が立った」
山頂の極寒の作業用モニターから、コントロールルームの安全な室内でコーヒーを啜る芳信の声が響いた。
「これからこの一本目の糸をガイドにして、マスドライバーで撃ち上げた炭素をステーションで食わせ、蜘蛛の巣のように糸を編み込んで太くしていく。……数年後には、巨大なエレベーターのシャフトが完成する計算だ」
モニター越しに、秀一が満足げに頷く姿も見える。
「マスドライバーでの射出は、加速Gが強烈すぎて人間や精密機械は運べないからな。……しかし、この軌道エレベーターが完成すれば、民間人すらもが、景色を楽しみながら安全かつ安価に宇宙へ通勤できるようになる」
秀一の言葉は、単なる技術的成果の確認ではない。
彼らの視線の先には、国家予算をすり減らして「アポロ計画」という巨大な火薬庫で月を目指しているアメリカの姿があった。
「アメリカが月面で星条旗を立てて喜んでいる間に、我々は地球と宇宙の『物流と人の動脈』を独占する。……通行料は言い値だ。インフラを支配する者が、次の時代の覇者となる」
秀一の政治と経済の野望が、冷徹な響きを持って真田の耳に届く。
だが、芳信は鼻で笑った。
「兄さんは相変わらず、スケールがでかいのか小さいのか分からないな。……俺は通行料で小銭を稼ぐために、こんなものを作っているわけじゃないぞ」
「分かっている。お前はただ、最高の部品を宇宙で作るための、安全な『道』が欲しいだけだろう?」
「それもあるが……」
芳信の瞳に、モータースポーツで狂熱を振り撒いていた時と同じ、狂信的な光が宿った。
「道が繋がって、自由に車や機材を宇宙へ運べるようになったら……あそこ(月面)の六分の一の重力下で、一体どんな狂ったレースを開催してやろうかと、そればかり考えている」
芳信の言葉に、秀一は苦笑し、極寒の山頂にいる真田は呆れたように天を仰いだ。
世界を裏から操る冷徹な政治家と、果てしない速度の夢を追い続ける技術の怪物。
先住民たちが神の怒りだと畏れる轟音の中、地球と宇宙を繋ぐ見えざる「蜘蛛の糸」は、人類を次なる次元の熱狂へと引きずり上げるため、静かに、そして強靭に編み込まれ始めていた。




