第83話:見えざる盾と、赤き軍拡
昭和三十一年(1956年)。
ル・マンでの熱狂、そして極北でのスノー・ラリーの完全制覇。
九条自動車が地上のありとあらゆる過酷な環境をねじ伏せ、物理法則の限界点を書き換え続けているその裏側で。
地上から遥か数百キロ上空、音のない真空の闇の中では、国家の存亡を賭けた静かなる戦争が勃発しようとしていた。
ソビエト連邦・カザフ共和国にある極秘のロケット打ち上げ施設。
重苦しい空気に包まれた管制室で、軍の高官たちが固唾を飲んでモニターを見つめていた。
「……打ち上げ成功。第一衛星、予定軌道への投入を確認」
管制官の報告に、クレムリンから派遣された将軍は安堵の息を吐き、獰猛な笑みを浮かべた。
数年前、九条芳信が世界に突きつけた「宇宙インフラの独占」。
九条の規格に繋がなければ、宇宙空間の致死的な放射線から身を守れないという絶対的なルールに対し、ソ連はパイロットの命を切り捨て「完全無人の軍事衛星」に特化するという道を選んだ。
通信の傍受、そして西側諸国や日本への弾道ミサイルの誘導網構築。
九条の監視の目を掻い潜り、共産圏独自の宇宙インフラを完成させるための第一歩が、ついに踏み出されたのである。
「同志スターリンも喜ばれるだろう。これで我々は、九条という極東の化け物の軛から抜け出すことができる」
しかし、将軍の勝利の余韻は、わずか数時間後に唐突に破られることとなる。
「将軍! 軌道上の衛星からのテレメトリーが……途絶しました!」
「なんだと!? 太陽フレアによる通信障害か!」
「違います、完全にロストしました! 観測レーダーによると、信じられない相対速度を持った小さな質量体が直撃し、機体が粉々に破砕された模様です! ……デブリ(宇宙ゴミ)か、微小隕石の衝突です!」
パニックに陥る管制室。
彼らは知る由もなかった。
自国の希望を乗せた軍事衛星が、九条の造り出した見えざる「盾」によって、いとも容易く狙撃されたという事実を。
同時刻。
帝都・品川の九条技術研究所、最深部のコントロールルーム。
巨大な壁面スクリーンには、地球の周回軌道を描く無数の光点と、たった今軌道上で四散したソ連の衛星の残骸が、冷徹なデータとして表示されていた。
「……ふん。わざわざ鉄屑を宇宙に放り投げるとは、ソ連の連中もご苦労なことだな」
芳信は、コンソールの前で退屈そうにコーヒーを啜っていた。
隣に立つ秀一が、手元のタブレットを操作しながら薄く笑う。
「ご苦労だったよ、芳信。お前が展開させていた『デブリ掃討衛星』がいい仕事をしてくれた」
デブリ掃討衛星。
それは、九条の宇宙ステーション『天照』の安全を確保するという名目で、芳信が軌道上に配備していた無人プラットフォームである。
「チンボラソ山のマスドライバーで確立した電磁加速技術を、軌道上で小型化しただけのおもちゃだ。弾丸には、あの『天照』の無重力工場で製造している『完璧な真球ベアリング』の、ごく僅かな歪みで弾かれた規格外の失敗作をそのまま流用している」
芳信はコンソールを叩き、軌道上の掃討衛星に弾薬の再装填モードへ移行するよう指示を出した。
真空の宇宙空間において、相対速度が秒速数キロに達する直撃は、たかが数十グラムの鉄の球であっても凄まじい運動エネルギーを生み出し、人工衛星の装甲を容易く貫通して内部機器を爆発的に粉砕する威力を誇る。
「超高回転のエンジンに耐えるための高硬度な軸受鋼での狙撃……。なるほど、相手からすれば『不運にも、微小隕石かデブリが衝突した』としか観測できないわけだ。弾丸自体も超音速の衝突熱で蒸発・飛散するか、他の破片に紛れる。自社のゴミ処理も兼ねているとは、これなら証拠など残りようがない」
秀一の冷徹な分析に、芳信は鼻を鳴らした。
「ただの宇宙の交通事故だよ。それに、あんな不格好なロケットで打ち上げられた精度の低い機械など、放置していてもいずれ勝手に壊れる。俺の完璧な宇宙工場の周囲を、あんな汚い鉄屑に飛ばれては目障りなだけだ」
芳信にとって、宇宙空間はすでに自身の理想の車を造るための「究極の鍛冶場」であった。
そこに政治的イデオロギーや軍事のノイズが入り込むことなど、微塵も許すつもりはなかったのである。
「これでソ連も理解するだろう。地上であれ宇宙であれ、九条のルールから外れた者は、事故という名の沈黙によって排除されるということを」
秀一の静かな言葉が、誰もいないコントロールルームに響いた。
アメリカがアポロ計画に莫大な予算を溶かし、ソ連が不運な隕石事故として軍事衛星の残骸を抱えて絶望する中。
九条家は、兵器ではなく「部品製造の副産物」によって、誰も気づかないうちに地球の低軌道を完全に封鎖し、見えざる鉄の天井を構築し終えていた。
「さあ、掃除は終わりだ。……そろそろ、本命の『大黒柱』を地球に突き立てる作業に戻るとしよう」
芳信の視線はすでに、南米チンボラソ山から伸びる、まだ見ぬ一本の細く強靭な糸――次世代の超巨大インフラである「軌道エレベーター」の建設へと向かっていた。




