第82話:極北の死闘と、スノー・ラリー
昭和三十一年(1956年)冬。
北欧、スカンジナビア半島の森深く。
視界を遮るほどの猛吹雪と、氷点下二十度を下回る極低温が支配するその場所は、ル・マンの熱狂的なアスファルトとも、ダカールの灼熱の砂漠とも全く異なる、白銀に閉ざされた静寂の地獄であった。
WRC(世界ラリー選手権)の前身となる、極北のスノー・ラリー選手権。
極限まで摩擦係数が低い雪と氷の路面を舞台に、各国のワークスチームがしのぎを削るこの過酷なレースに、九条レーシング・ディビジョン(KRD)は新たな刺客を送り込んでいた。
「くそっ……! またトラクションが抜けやがる!」
凍てつく氷の回廊を時速百五十キロで疾走するKRDのラリー仕様プロトタイプの中で、ステアリングを握る赤星健が苛立たしげに舌打ちをした。
彼が持ち込んだマシンは、彼の哲学である「極限の軽量化」を施された、羽のように軽いシャシーを持っていた。
舗装されたサーキットにおいて、軽さは圧倒的な加速と鋭いコーナリングを生み出す絶対的な正義である。
だが、この摩擦ゼロの氷上においては、その軽さが致命的な弱点となって彼に牙を剥いていた。
車体が軽すぎるがゆえに、スパイクタイヤが氷の表面を引っ掻くだけで路面に食い込まず、アクセルを踏んでも空転するばかりで前に進まないのだ。
その赤星の焦りを嘲笑うかのように、背後から猛烈な勢いで迫ってくる一台のマシンがあった。
「……悪いな、赤星。雪の上じゃあ、軽すぎるのも考えものだぜ」
無線越しに不敵な声が響く。
三菱のワークスチームが社運を賭けて送り込んできた新型四輪駆動ラリーカー、そのステアリングを握る真壁一輝である。
真壁のマシンは、赤星のものより数百キロも重かった。
だが、その「重さ」こそが氷の上では最大の武器となる。
車体の重みが四つのタイヤを氷に力強く押し付け、三菱の若き天才技術者・羽村翔が設計した高度な機械式四輪駆動システムが、そのトラクションを余すことなく前進する推進力へと変換していく。
安定した姿勢のまま、真壁のマシンがイン側から赤星をやすやすと抜き去っていった。
「ちくしょう! 直線で四駆に置いていかれるなんて、俺のプライドが許さねえ!」
赤星は血走った目でアクセルを踏み込むが、リアタイヤが左右に振れるばかりで速度は一向に乗らない。
彼がこれまで信じてきた「軽さ=速さ」という物理法則が、白銀の世界で完全に崩壊しようとしていた。
その時、ヘルメットのインカムから、静かで冷徹な声が響いた。
『赤星、無駄にアクセルを煽るな。氷の上でアスファルトと同じ踏み方をしているようでは、永遠に三菱には追いつけないぞ』
KRDのベースキャンプからテレメトリーを監視している、神谷蒼からの通信だった。
「教官! だが、このままじゃ……車が軽すぎて、タイヤが氷に噛まねえんです!」
『軽いのがお前の武器だろう。……車に静止状態での重さ(ウェイト)がないのなら、走りで「動的な重さ」を創り出せ』
神谷の言葉に、赤星はハッと息を呑んだ。
『思いだせ、荷重移動だ。ブレーキングで車体の重さをすべてフロントに集め、フロントタイヤを氷に突き刺せ。そしてアクセルを踏む瞬間、リアに重さを移動させて路面を蹴り飛ばす。……重力がないなら、お前自身の力で路面に重力を叩きつけろ』
「……動的な重さ……荷重移動!」
赤星の瞳に、再び狂気じみた光が宿った。
前方に迫るのは、右へ鋭く曲がるアイスバーンのヘアピンコーナー。
先行する真壁の三菱車は、四輪駆動の安定性を活かし、手前から丁寧に減速して確実なグリップ走行でコーナーへ進入していく。
対して赤星は、ブレーキポイントを極限まで遅らせた。
「創り出してやるよ……俺だけの重力を!」
赤星はコーナーの進入直前、ステアリングを曲がりたい方向とは『逆(左)』へ一瞬だけ鋭く切った。
車体が左へグラリと傾く。
その直後、今度はステアリングを本来の『右』へ猛烈な勢いで切り返し、同時にブレーキペダルを蹴り飛ばした。
慣性の法則により、車体のすべての重量が、右フロントタイヤのたった一点へと暴力的に集中する。
「食いつけェッ!」
極限の軽量化を施された車体だからこそ生み出せる、鋭敏すぎるほどの荷重移動。
車体から移動した数百キロの動的な重みがスパイクタイヤを氷の奥深くまで突き刺し、圧倒的なフロントグリップを生み出した。
赤星のマシンは、真壁の想像を絶する速度でノーズを右へと向け、車体の後部を大きく振り出しながらコーナーのイン側へと滑り込んでいく。
「なっ……! あの速度で、雪の壁に刺さらないだと!?」
バックミラー越しにその異常な挙動を見た真壁が、驚愕の声を上げる。
赤星は、車体が横を向いた完全なドリフト状態のまま、アクセルを床まで踏み抜いた。
今度はフロントに集中していた荷重が、一気にリアタイヤへと移動する。
空転していたはずのリアタイヤが、動的な重みによって氷を粉砕しながら強力なトラクションを生み出し、赤星のマシンを弾丸のようにコーナーの出口へと押し出した。
「ヒャッハー! これが俺の『軽さ』の真骨頂だ!」
赤星のマシンは、立ち上がりのトラクションで真壁の四輪駆動車を完全に置き去りにし、雪煙を上げて再びトップへと躍り出た。
ベースキャンプのテントの中。
ストーブの火が燃える横で、モニターに映る赤星の神懸かり的なコーナリング(スカンジナビアン・フリック)を見ていた芳信は、満足げに笑い声を上げた。
「素晴らしい。物理的な重さが足りないなら、運動エネルギーを一点に集約して重さを捏造する。……やはり人間というのは、機械の限界を軽く超えてきやがる」
芳信は温かいコーヒーを啜りながら、傍らの神谷に視線を向けた。
「お前の教え子も、いよいよ頼もしくなってきたな、神谷」
「彼らはもともと一流です。ただ、環境が変わった時に、自分の武器の使い分け方を忘れていただけのこと。……それに、あれは教えたからといって誰にでもできる芸当ではありませんよ」
神谷もまた、自身の後継者とも言える若き牙の成長に、微かな笑みを浮かべていた。
その日の夕刻。
猛吹雪を切り裂き、赤星の駆るKRDのマシンが、三菱の追撃を振り切ってトップでゴールラインを駆け抜けた。
極限の低摩擦という新たな物理法則の壁を、人間の知恵と狂気でねじ伏せた瞬間であった。
「ははっ、完敗だぜ。まさか雪の上で、あんなサーカスの猛獣みたいな走りを見せられるとはな」
ゴール後、マシンから降りた真壁が、雪まみれのグローブのまま赤星に歩み寄り、爽やかに右手を差し出した。
「重さに頼ってるうちは、まだまだってことだ。……次も俺のテールランプを拝ませてやるよ」
赤星もまた、疲労の色を隠せない顔で、しかし誇らしげにその手を握り返した。
アスファルト、砂漠、そして雪と氷。
地球上のあらゆる過酷な自然環境を、九条の技術とドライバーたちの狂熱が次々と制圧していく。
地上において彼らを縛り付けるものは、もはや何一つ存在しなかった。
だが、彼らが極北の地で勝利の美酒に酔いしれているその頃。
ソビエト連邦による静かなる「反撃の狼煙」が、密かに打ち上げられようとしていた。




