第81話:耐久の果てと、新たなる標準
昭和三十年(一九五五年)夏。
フランス、サルト・サーキットに眩しい朝の光が差し込んでも、レースの行方はすでに誰の目にも残酷なほど明らかだった。
ル・マン二十四時間レース、二日目の午後。
かつてこの地を支配していた欧州の大排気量マシンたちは、文字通り満身創痍の状態でコースを這いずり回っていた。
九条レーシング・ディビジョン(KRD)が刻む異常なハイペースに無理に食らいつこうとした者は、熱に耐えきれずにエンジンから火を吹き、リタイアの憂き目に遭っている。
生き残っている者たちも、巨大な排気量がもたらす最悪の燃費に苦しめられ、頻繁な給油でピットに縛り付けられ、絶望的なまでに周回遅れを重ねていた。
対して、KRDが持ち込んだ二台の『叢雲・改』は、まるで精密な時計のように一切のトラブルなく、狂気的なペースで周回し続けている。
ブレーキの熱エネルギーを真空のフライホイールに回収し、加速に再利用する九条のハイブリッドシステム。
そして、その超高回転に二十四時間耐え続ける、宇宙空間で鋳造された「ゼロGチタン合金」。
芳信が物理限界を力でねじ伏せて創り上げたこの二つの要素は、耐久レースにおける「消耗」という概念を完全に抹殺していた。
午後三時。
レースは残り一時間を切り、ピットウォールには疲労困憊の各チームのスタッフが並び、ただ終わりの時を待っていた。
だが、KRDのピットだけは、異様な緊張感と殺気に包まれていた。
「……総帥。残り一時間です。二位の氷室のタイムが、トップの神谷に迫っています。順位維持の指示を出しますか」
黒木伝蔵が、ストップウォッチを握り締めながら芳信に尋ねた。
耐久レースの終盤、味方同士の無用な争いを避け、確実にワンツーフィニッシュを飾るための当然の提案である。
しかし、芳信は腕を組んだまま、獰猛な笑みを浮かべて首を振った。
「順位維持だと? そんな退屈なパレードランを見せるために、宇宙までチタンを拾いに行ったわけじゃない。……黒木、二人に伝えろ。『最後まで全開で踏み抜け。相手を殺す気で走れ』と」
芳信の狂った指示が、無線の電波に乗ってコース上の二人に届けられた。
一号車を駆る神谷蒼と、二号車を駆る氷室涼。
二十三時間を走り抜き、本来ならば肉体も精神も限界を迎えているはずの二人の男は、ヘルメットの中で同時に、獣のように笑った。
「聞いたかよ、神谷の旦那。……社長から、殺し合いの許可が下りたぜ」
氷室が無線越しに挑発し、アクセルペダルを床の底まで踏み抜いた。
フライホイールから解放された莫大な運動エネルギーがモーターを駆動し、V型十二気筒エンジンの暴力的な加速にさらなる推進力を上乗せする。
「いいだろう。……俺のテールランプに、追いつけるものなら追いついてみろ」
神谷もまた、冷徹な声で応じ、前方のコーナーへ向けて一切の迷いなく飛び込んでいく。
それは、二十四時間耐久レースの最終盤とは思えない、コンマ数秒を削り合う「予選アタック(スプリント)」さながらのドッグファイトだった。
二台の漆黒のマシンが、ミュルサンヌ・ストレートを時速三百キロを超えるスピードで並走する。
ブレーキングのたびに真空のコマが「キュイィィィン」と高周波の悲鳴を上げ、コーナーの立ち上がりで強烈な加速を見せる。
他チームの遅い車をパイロンのように抜き去りながら、神谷と氷室は火花を散らしてトップ争いを演じた。
欧州勢は、その異次元の戦いをただ呆然と見送ることしかできなかった。
午後四時。
ついに、運命のチェッカーフラッグが打ち下ろされる。
コンマ数秒の差で、神谷・赤星組の一号車が優勝。
その真後ろに張り付くようにして、氷室・マキ組の二号車が二位でゴールラインを駆け抜けた。
三位の欧州車には実に数十周もの大差をつける、歴史的かつ絶望的な完全勝利であった。
ピットロードへ戻ってきた二台のマシンを取り囲むように、数え切れないほどのフラッシュの嵐が降り注ぐ。
歓喜に沸くKRDのスタッフたちを後目に、芳信は一人、パドックの奥で静かに腕を組んでいた。
そこに、杖をついた一人の老人が歩み寄ってくる。
かつて九条をルールで縛り上げようとした欧州のプライド、エンツォ・フェラーリであった。
彼の表情には、もはや言い訳すら思いつかないほどの完全な敗北感と、それでも失われない偉大な自動車人としての矜持があった。
「……我々は、エンジンという心臓だけを鍛えすぎたようだな」
エンツォは、芳信の造り上げたハイブリッドマシンを見つめながら、深くため息をついた。
「君は、車が走るという『運動そのもの』を再定義してしまった。あの異常な燃費と、コーナー立ち上がりでの異次元の加速……減速で捨てるはずのエネルギーすらも、何らかの形で推進力に変換しているのだろう? そのような発想は、我々が愛した内燃機関の常識を完全に破壊してしまった。……九条芳信、私の完敗だ」
エンツォの潔い敗北宣言に、芳信は薄く微笑んで応えた。
「内燃機関の常識を破壊したのではありません。内燃機関の無駄を極限まで削ぎ落とした結果、この形に行き着いたのです。……エンツォ、これは欧州の葬式じゃない。エンジンの新たな可能性の産声ですよ」
芳信の言葉に、エンツォは苦笑しながらも、深く頷いた。
ル・マンの熱狂から数日後。
フランス、パリにあるFIA(国際自動車連盟)の本部ビル。
重厚なマホガニーの円卓を囲むように、欧州の主要自動車メーカーの重役たちが、蒼白な顔で座っていた。
彼らの視線の先、上座に悠然と座っているのは、九条秀一である。
「皆様、ル・マンでの我がチームの圧倒的なデータは、すでにご覧いただいたかと思います」
秀一は、KERS(運動エネルギー回生システム)がもたらした驚異的な燃費性能と、排気ガスの少なさを示すレポートをテーブルの中央に滑らせた。
「前年に私が制定させていただいた『国際環境基準』に照らし合わせれば、もはや大排気量でガソリンを垂れ流し、環境を汚染するだけの野蛮な車は、来年以降、欧州の公道を走ることはできなくなります」
秀一の冷徹な通告に、重役たちから呻き声が漏れた。
ル・マンで実証された九条のハイブリッドシステムの性能は、彼らの既存の技術が完全に時代遅れであることを、世界中に証明してしまったのだ。
「我が社の技術を使わずに、あなた方が独自に環境基準を満たそうとすれば、開発に十年以上の歳月と莫大な資金が必要になるでしょう。その間に、あなた方の会社はすべて倒産します」
秀一は薄く笑い、最後通牒を突きつけた。
「ですが、安心してください。我々は『九条式ハイブリッドシステム』のパテント(特許)を、法外な価格で売りつけるつもりはありません」
重役たちが驚きの表情を浮かべる中、秀一は一枚の契約書を取り出した。
「条件は一つ。今後、あなた方が製造する全車種の『電子制御基盤』を、すべて九条の規格に統一していただくこと。そして、そのシステムが稼働して得られる利益とデータの一部を、上納していただきます」
それは、単なる部品の供給ではない。
車の頭脳である電子制御を九条が完全に握るということは、彼らが車を造れば造るほど、九条に利益とデータが吸い上げられ、九条のシステムなしでは一切の身動きが取れなくなる「絶対的な依存関係」の構築を意味していた。
同意しなければ市場から退場するしかないメーカーたちに、選択の余地はなかった。
屈辱と共に契約書にサインをする重役たちを見下ろし、秀一は冷たい笑みを深める。
芳信がサーキットで放った狂熱を、秀一が国際社会の「標準規格」として冷徹に縛り上げる。
この日、九条家による世界の自動車産業の完全支配が、音もなく完了したのである。
さらに数週間後。
帝都・品川のKRDガレージには、凱旋したメンバーたちの姿があった。
赤星や氷室、マキたちは、世界三大レース制覇という偉業の余韻に浸りながら、和やかに談笑している。
だが、ガレージの奥で製図板に向かっている芳信の目は、すでにル・マンの勝利など見ていなかった。
芳信は、これまでのオンロード用のシャシーとは全く異なる、奇妙なサスペンション構造と駆動系の図面を引いていた。
「……次はどこへ行くつもりだ、社長」
いつの間にか背後に立っていた神谷が、図面を覗き込みながら尋ねた。
芳信は鉛筆を止め、壁に掛けられた巨大な世界地図を指差した。
「舗装されたアスファルトでの最適解は出た。ル・マンを制したことで、耐久性と効率の証明も終わった。……だが、自然はもっと残酷で、気まぐれだ」
芳信が指差した先は、北欧のスカンジナビア半島。
「次は、極限まで摩擦係数が低く、電子制御すらも無効化しかねない世界だ。……雪と氷の路面を制覇する『スノー・ラリー』へ参戦する」
芳信の瞳には、終わることのない狂信的な光が宿っていた。
「摩擦ゼロの世界で、どうやって物理法則をねじ伏せ、車を前に進めるか。……さあ、新たな闘争の始まりだ」
その言葉に、神谷の唇が獰猛な弧を描き、遠くで聞いていた赤星たちも武者震いをしたように身を乗り出した。
限界の果てに辿り着いた九条の牙たちは、立ち止まることを許されない。
次なる戦場、白銀に閉ざされた極低温の地獄へ向けて、彼らのエンジンは再び狂おしい産声を上げようとしていた。




