第79話:次世代の産声と、重力からの解放
昭和三十年(1955年)春。
世界は今、見えない空の彼方を目指す狂熱に取り憑かれていた。
欧米諸国が躍起になって進める大型化学ロケットの開発は、分厚い大気と見えない重力の壁に阻まれ、連続して失敗の憂き目に遭っている。
莫大な国家予算が文字通り「火の粉」となって虚空へ消えているというニュースが、連日のようにラジオや新聞を賑わせていた。
その喧騒から遠く離れた、静謐な品川の九条邸。
柔らかな春の陽射しが差し込む私室で、芳信は産着に包まれた小さな命を、その腕にそっと抱き留めていた。
「……驚くほど、静かだな」
芳信が呆気にとられたように呟くと、ベッドで横になる綾子が、少し疲れたような、しかしこれ以上ないほど幸福に満ちた微笑みを浮かべた。
「あなたに似て、無駄な泣き声は上げないみたいね。でも、目元は私に似て、きっと度胸のある子になるわ」
芳信と綾子の間に誕生した、第一子となる男児。
芳信は我が子に「光信」と名付けた。
九条が世界に張り巡らせた絶対的な通信と速度の象徴である「光」と、自身から一字を取った名である。
「……約三キログラムか」
芳信は、腕の中に伝わる我が子のささやかな「重み」を感じながら、ふと視線を落とした。
これまで彼は、車体の重量をグラム単位で削り落とし、重力をねじ伏せることにのみエンジニアとしての魂を燃やしてきた。
一万回転を超えるエンジンの咆哮や、強烈なダウンフォースが生み出す暴力的なGにこそ、生きる意味を見出していた。
だが今、自らの血を分けた小さな肉体の重みを感じた瞬間、彼の内側に全く新しい感情が芽生え始めていた。
彼は「地球」という星が生命を縛り付ける絶対的な鎖――『重力』という存在の理不尽さを、これまでにないほど明確に、そして憎悪を込めて意識した。
(人間は、なぜこの重苦しい泥の底に縛り付けられなければならないのか)
芳信は、すやすやと眠る光信の額を指先で優しく撫でた。
この小さな命が、いつか立ち上がり、歩き出し、空を見上げる時。
その時にまだ、人類がこの窮屈な重力の檻の中で、つまらない国境やルールの奪い合いをしているようでは、あまりにも退屈すぎる。
(……待っていろ、光信。この重苦しい地球の引力から、いつかお前を完全に解放してやる)
それは、世界を遊び場にしてきた男が、父親として次世代に対して立てた、静かで絶対的な誓いであった。
数日後、九条邸の書斎。
芳信の兄である秀一が、光信の誕生を祝うために訪れていた。
「光信の健やかな成長を祈っているよ。……さて、お前の道楽の方だが、南米チンボラソ山のマスドライバーが順調なら、宇宙インフラの輸送網は完璧だな」
秀一が最高級の葉巻を燻らせながら問いかけると、芳信は机の上に巨大な図面を広げたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、マスドライバーはただの大砲だ。加速時のGが100Gを超えちまう。チタンや炭素の塊なら安価に運べるが、人間や精密機器を乗せれば一瞬で肉塊だ」
「だろうな。あんな真空チューブで人間を大気圏外へ撃ち出すなど、拷問でも生ぬるい。だが、お前はすでに次の手を考えているのだろう?」
秀一の鋭い指摘に、芳信は獰猛な笑みを浮かべ、丸められていた一枚の巨大な設計図を乱暴に広げた。
「安全に人間を運ぶためには、物理的な道――地球と宇宙を繋ぐ『軌道エレベーター』が必要だ」
秀一は設計図を一瞥し、冷静に息を吐き出して葉巻の煙を散らした。
「芳信、計算は合うのか? 地球から静止軌道まで届く三万六千キロメートルのケーブルなど、何億トンという資材が必要になるぞ。我が社の資産をすべて注ぎ込んでも何百年かかるか分からない。それに、生成した長大なケーブルを宇宙ステーションに保管する体積もないはずだ。自らの体積でステーションがパンクするぞ」
政治と経済の頂点に立ち、あらゆる物流のコストを掌握する秀一の、完璧な理屈による指摘だった。
しかし芳信は、それを鼻で笑って一蹴した。
「保管はしない。宇宙ステーションを巨大な『蜘蛛』にするんだよ、兄さん」
芳信は図面の一点、宇宙ステーション『天照』の構造図を指差した。
「チンボラソのマスドライバーで、安価な炭素のブロックを宇宙へガンガン撃ち上げ続けろ。ステーションはそれを食い、無重力下で完璧なカーボンナノチューブを紡ぎ、端からそのままチンボラソの山頂へ向けて垂らしていくんだ。俺たちはただ、上から降りてくるその糸を地上で結びつければいい」
「作る端から垂らすだと……? だが、それでは重力に引かれてステーションごと墜落するぞ」
「反対側の外宇宙に向けても、同じ質量を伸ばしてカウンターウェイト(重り)にするのさ。そして重量の問題だが、兄さんは文系だな。地球の鉄屑で柱を造るなら何億トンも要るだろう。だが、強靭で超軽量のナノチューブを、重力バランスを計算した『テーパー構造(下へ行くほど細くなる形状)』で紡げば、必要な炭素の総重量はたったの約『一万トン』だ」
秀一の目が、驚愕に見開かれた。
「……一万トン。マスドライバーで一日十トン撃ち上げれば、三年で全資材が揃う計算か」
「そうだ。俺の子供が自分の足で歩き出す頃には、この星の重力は無力化されている」
弟の狂気が、すでに数年後の現実として完璧に計算され尽くしていることに、秀一は深い戦慄と、底知れぬ頼もしさを覚えた。
季節は巡り、夏。
品川のKRD本部のガレージでは、欧州伝統の二十四時間耐久レース『ル・マン』に向けた新マシン『叢雲・改(ル・マン仕様)』の組み上げが最終段階に入っていた。
「総帥、宇宙の素材ってのは本当にイカれてるぜ」
現場の神様である黒木伝蔵が、油まみれの手で超軽量のミッションケースを叩きながら笑った。
「普通なら熱で燃えちまうマグネシウムだが、宇宙の真空と無重力で焼結させたこいつは、紙のように軽いくせに絶対に燃えねえ。……そしてこっちの心臓だ」
黒木が愛おしそうに、まるで赤子を扱うかのように撫でたのは、宇宙から降ろされた「ゼロGチタン合金」の無垢材から削り出した、究極のエンジンブロックとクランクシャフトだった。
地球上の重力による不純物の沈殿や対流を一切受けていない、理論値通りの強度を誇る完璧な金属の結晶。
「だが総帥、チタン素材は数年前、欧州の奴らが慌てて作ったルールで全面的に禁止されたはずだぜ。車検で弾かれちまうぞ」
黒木の懸念に対し、芳信は不敵に笑い、図面に万年筆を走らせたまま答えた。
「禁止されたのは『F1』の『シャシー』だ、伝蔵。ル・マンは別カテゴリのプロトタイプ規定だし、何より今回チタンで削り出したのはシャシーではなくエンジンの内臓だ。……奴らのルールブックのどこに、『宇宙空間で無重力鋳造したチタンをエンジンの中身に使ってはいけない』と書いてある?」
「……へっ、相変わらず性格が悪いこった。連中、車検の時にエンジンの前で泡を吹いて倒れるんじゃねえか?」
黒木が悪びれずに笑うと、ガレージの奥から白衣を着た若き天才エンジニア、真田源が新たなユニットを運び込んできた。
それは化学バッテリーのような四角い箱ではなく、完全に密閉され、真空パックされた分厚い金属の円筒だった。
「芳信社長、完成しました。ル・マンの燃費規定を嘲笑うための、我が九条の回答です」
真田が円筒をマシンの中心、極限まで低くマウントされた位置に組み込みながら、無機質な声で解説を始める。
「ル・マンは二十四時間の長丁場です。ブレーキの摩擦熱を電気に変える化学電池のハイブリッドでは、二十四時間もの過酷な充放電の熱で必ず爆発します。これは内部を完全に真空にし、ゼロGチタンのコマを磁気浮上で数万回転させる『フライホイール式・運動エネルギー回生システム(KERS)』です」
真田の説明に、ガレージに集まっていた四人の「牙」たちが身を乗り出した。
「真空で、磁気浮上……ってことは、摩擦がないのか?」
氷室涼が信じられないというように円筒を覗き込む。
「その通りです。空気抵抗ゼロ、摩擦ゼロ。ブレーキで捨てるはずの熱を、物理的な『回転』として保存し、加速に再利用します。強烈な遠心力で千切れないゼロGチタンのコマと、真空パック技術があって初めて成立する、熱劣化を持たない半永久的な耐久システムです」
「これにより、スタート時に積載するガソリンの重量を数百キログラム単位で減らせます。……欧州勢に、減速という捨てるエネルギーすらも速度に変換する『効率という暴力』を見せつけてやりましょう」
真田の冷徹な宣告に、神谷蒼、赤星健、氷室涼、そして橘マキの四人は、武者震いするように目を輝かせた。
「ブレーキを踏むたびに、次の加速の弾が装填されるってわけか。……たまんねえな」
赤星が極限まで肉抜きされたステアリングを撫でながら、狂気的な笑みを浮かべる。
「燃費を気にせず、常に全力で踏み抜ける。これで欧州の連中を完全に置き去りにできるわね」
マキもまた、黄金の軌跡にさらなる速度が乗ることを確信し、優雅に微笑んだ。
次世代へ遺すための「最高の遊び場」を広げるべく、重力を否定し、物理法則をねじ伏せる究極の機械が完成した。
KRDの牙たちは、耐久の聖地・フランスを完璧に蹂躙する決意を胸に、戦いの地へと旅立つ準備を整えた。




