第78話:無重力の鍛冶場と、次世代への胎動
空調の効いたKRDのメインガレージには、不気味なほどの静寂が満ちていた。
いや、静寂ではない。
それは、極限まで圧縮された熱量だった。
数台のモニターに囲まれたデスクで、神谷蒼とマキは、血走った眼で鈴鹿での走行データを睨みつけていた。
無数のグラフと数値の羅列。
彼らは敗北したのだ。三菱が作り上げた、緻密なテクニカルコースである鈴鹿サーキットで。
「……社長の言う通りだ、マキ。お前たちはまだ足りない」
今回あえて出走を見送った絶対的エースの神谷の言葉には、悔しさよりも、後輩たちの不甲斐なさに対する厳しい響きがあった。
マキも無言で頷き、キーボードを叩く指の速度を上げる。
そこへ、硬質な足音が響いた。
芳信だった。
公の場で見せる冷徹な仮面はそこにはない。彼らに向けるのは、傲岸不遜で、どこか楽しげな素の表情だった。
「どうした、お前ら。三菱の執念に当てられて、少しは目が覚めたか?」
芳信のからかうような声に、神谷はゆっくりとモニターから視線を外し、芳信を鋭く見据えた。
その瞳は、狂気を孕んだ技術者のそれだ。
「……社長。わざと出力を絞りましたね」
神谷の言葉に、ガレージ内の空気がピンと張り詰めた。
神谷は冷静な敬語を崩さないが、その奥にはテストドライバーとしての凄みが隠されている。
「俺がテストで完璧に仕上げたエンジンマッピングが、本番直前に書き換えられていました。あいつらのアクセルワークに対して、エンジンのレスポンスがコーナーの立ち上がりでコンマ数秒、意図的に遅延されるプログラムになっていた。あれがなければ、勝てたはずだ」
芳信は隠す素振りも見せず、喉の奥で低く笑った。
「気づいていたか。当然だな」
芳信は神谷の肩を軽く叩き、モニターのデータを一瞥した。
「あいつらの牙が鈍らないようにするための、ちょっとしたハンデだ。それに、今の『地球上の鉄屑』で作った未完成なマシンで勝ち続けられても、俺が退屈だからな。三菱には、もう少し夢を見させておいてやれ」
未完成。
神谷が眉をひそめると、芳信は不敵な笑みを深めた。
「ああ。俺たちの真の『完全なマシン』を組み上げるためのパーツは、まもなく”上”から降りてくる」
***
地球軌道上、九条の宇宙ステーション『天照』。
音のない真空空間に浮かぶその巨大な構造物の内部で、人類の素材工学を根底から覆す実験が行われていた。
地上にあるKRD本部では、芳信、真田源、そして黒木伝蔵が、天照から送られてくるライブ映像をモニターで監視していた。
「社長、見てください。無重力空間での『粉末冶金』と『加圧焼結』、完全に理論値通りに進行しています」
真田の声が、興奮で微かに震えていた。
画面の中では、無重力環境のチャンバー内で、あらかじめ計算されたギリギリの質量のチタン合金粉末が型に入れられ、均一な熱と圧力をかけられていた。
「地球の重力下で溶かして混ぜれば、どうしても重い成分が沈み、対流が起きて微小な欠陥が生まれます。しかし、無重力での粉末焼結なら、それが一切ない」
真田が早口で解説を続ける。
「削りカスという無駄な質量を一切出さず、完成品に極めて近い粗型……『ニアネットシェイプ』での成形が可能です。分子レベルで完全に均一な、理論限界値通りの疲労限界と耐熱性を持った、完璧な無垢材です」
黒木伝蔵が、腕組みをしたままモニターを睨みつける。
「……だが、こんなどデカいチタンの塊、宇宙に打ち上げて下ろすだけで、グラム単価がえげつねえことになるんじゃねえのか? クランクシャフト一本で何億円もかかってたんじゃ、レースどころじゃねえぞ」
職人らしい、極めて現実的な指摘だった。
しかし、芳信は愉快そうに笑声を上げた。
真田が眼鏡を押し上げながら答える。
「ええ、化学ロケットを使っていれば、一つのパーツが数億円から数十億円になるでしょう。ですが……我が社のインフラを舐めないでいただきたい」
真田が別のモニターに切り替えると、南米エクアドル、赤道直下にそびえる標高六千メートル超の『チンボラソ山』の斜面を這う、巨大な真空チューブ施設の映像が映し出された。
「『電磁マスドライバー』です。この真空チューブ式電磁射出システムと、耐熱無人回収カプセルを用いれば、打ち上げと回収のコストは従来の百分の一……部品一つあたり、数百万円程度に抑えられます」
真田は淡々と言ってのけた。
「F1の特注パーツと何ら変わらないコストです」
黒木が目を見開く。
「……マジかよ。宇宙をただの工場にしちまったのか」
「そうだ、黒木」
芳信がモニターから振り返り、獰猛な笑みを浮かべた。
「俺は、俺の車を作るためだけに、宇宙インフラを完成させた。文句はあるか?」
***
数日後。
太平洋上の九条専用回収エリアから、大気圏を突破してきた黒焦げのカプセルがKRD本部に運び込まれた。
厳重なロックが解除され、中から銀色に鈍く光るインゴット――次期マシンの心臓部となるエンジンブロックと、クランクシャフトの「粗型」が姿を現した。
その表面はザラついているが、真田が解析した分子構造データは、寸分の狂いもない完全な均質性を示していた。
「黒木」
芳信が、静かに名を呼ぶ。
「宇宙が用意した、完璧な素材だ。地球の重力で構造が壊れるから、溶かすことは許さん。この無垢の塊から、ミリ単位の狂いもなく、お前の手で『削り出せ』」
黒木伝蔵の顔に、職人としての底知れぬ歓喜と闘争心が浮かび上がった。
「へっ……上等じゃねえか」
黒木は無骨な手で、銀色の塊を撫でた。
「宇宙の理屈だろうが何だろうが、俺の旋盤の前じゃただの鉄の塊だ。削ってやるよ、完璧にな」
芳信は満足げに頷き、傍らに立つ神谷へと視線を移した。
「神谷。この削り出しの絶対的なパーツを使い、全く新しい耐久レース用マシンを設計する」
「耐久レース……まさか」
神谷が驚いたように芳信を見た。
「俺たちはこれまで欧州のスプリントレースを完全制覇してきましたが、あそこだけはレギュレーションの違いを理由に参戦を見送っていたはずです。……うちの極限まで削り落とした超高回転エンジンでは、二十四時間連続で走らせれば必ず壊れるからだ、と」
「ああ。だからこそ、この宇宙で造られた絶対的な耐久性を持つ素材が必要だったのだ」
芳信の瞳に、世界を焼き尽くすような野心が燃え上がった。
「次はフランスだ。『ル・マン24時間レース』。箱型車両による過酷な耐久戦。三菱が日本を熱狂させた。ならば次は、我々が欧州のプライドを本拠地で完全にへし折り、耐久性という概念で世界に真の絶望と熱狂を叩き込む番だ」
究極の素材と、究極の職人技、そして神の如きドライバー。
芳信の狂気が、ふたたび海を越えようとしていた。
***
場面は変わり、静謐な空気が流れる地上の九条邸。
重厚な調度品に囲まれた書斎で、芳信は窓の外の庭園を眺めていた。
ソファには、兄の秀一と、芳信の妻である綾子が座っている。
「……ル・マンに乗り込むそうだな、芳信」
秀一が紅茶を傾けながら切り出した。
「ああ。あそこは純粋なスピードだけでなく、車の『絶対的な耐久性』と『燃費効率』を競う実験場だ。俺の宇宙素材を見せつけるには最高の舞台だよ」
芳信は振り返り、隣に座る綾子を見た。
綾子は静かに頷き、自身の腹部にそっと手を当てた。
「芳信。先日の検査で、間違いないと……」
彼女の腹には、芳信との間にできた第一子が宿っていた。
秀一が、安堵と計算が入り混じったような笑みを浮かべる。
「そうか、出来たか。これで、九条の血脈と覇権は盤石になる。次世代への布石としては完璧だ」
政治家として、当主としての秀一の言葉だった。
しかし、芳信は再び窓の外へ視線を向け、ふっと鼻で笑った。
「血筋など、どうでもいい」
「芳信……」
「俺が死んだ後、九条がどうなろうが知ったことか。だが……」
芳信はゆっくりと振り返り、綾子の腹へと視線を落とした。
その瞳には、これまでの彼には見られなかった、歪でありながらも純粋な感情が宿っていた。
「俺の子供が、退屈な世界を生きるのは我慢ならん。だから、とびきり面白い世界を残してやらなきゃな」
それは、世界を自身の「遊び場」として改造してきた男が、初めて「次世代」という概念を明確に意識した瞬間だった。
彼の目線はすでに、遥か上空の宇宙空間、そのさらに先へと向かっていた。




