第77話:鈴鹿の咆哮と、三菱の反撃
昭和二十九年(1954年)春。
三重県のなだらかな丘陵地帯に、全く新しいモータースポーツの聖地が産声を上げた。
三菱財閥が社運と莫大な資本を投じて建設した『鈴鹿サーキット』である。
全長約六キロメートル。
世界でも類を見ない「8の字立体交差」を持ち、緻密に計算された連続S字コーナー、デグナーカーブ、そして立体交差後のスプーンカーブなど、息をつく暇もないテクニカルなレイアウトが特徴だ。
大自然の理不尽な高低差と狂気的な横Gをそのままアスファルトに閉じ込めた、二十キロメートル超の巨大山岳コースである群馬の『九条国際サーキット(緑の地獄)』とは対極に位置する、極めて洗練されたテストコースであった。
そのオープニングイベントとして開催される、全日本選手権の特別戦。
快晴の空の下、メインスタンドを埋め尽くした数十万の観客の前で、三菱合資会社社長・岩崎小弥太がマイクを握った。
「皆様、我が三菱の誇るこの鈴鹿の地へようこそ。……自動車は、もはや九条家だけが描く未来ではありません。本日、この精緻なるサーキットにおいて、我々三菱の技術の粋が、世界最高峰とされる九条の技術に正面から挑み、そして打ち破る瞬間をお見せすることをお約束します」
岩崎の力強い宣言と共に、ピットレーンから一台の真新しいフォーミュラカーが姿を現した。
三菱の若き天才技術者、羽村翔が設計を主導した新型マシン『風神』である。
地を這うような極端に低い車体。
九条のマシンとは一線を画す、空気を味方につけるための流線型のカウルと、車体後部に設置された巨大なウイング。
羽村は報道陣のフラッシュを浴びながら、自信に満ちた不敵な笑みを浮かべた。
「九条の暴力的なエンジンパワーに頼る時代は終わりました。この鈴鹿というテクニカルコースにおいては、直線の馬力など無用の長物。……『風神』は、空力を極限まで追求し、地面に張り付くようなコーナリング速度で勝負します」
一方、熱狂に包まれるメインストレートの反対側。
九条レーシング・ディビジョン(KRD)のピットには、重苦しい空気が漂っていた。
赤星健、氷室涼、そして橘マキの三人は、モニター越しに『風神』の洗練されたフォルムを睨みつけていた。
「……嫌な形をしてやがる。空気を切り裂くんじゃなく、空気の重さで車体を地面に押し付けようって魂胆か」
赤星が、自身の軽量化に特化したマシンと見比べながら苦々しく吐き捨てた。
「ああ。あの羽村って野郎、完全に鈴鹿の連続コーナーに的を絞って設計してきやがった」
氷室も苛立ちを隠せない。
彼の大排気量ターボエンジンは、直線の暴力性においては無敵だが、鈴鹿のようなストップ&ゴーが連続するテクニカルコースでは、アクセルを踏み込んでから過給がかかるまでの「ターボラグ」が致命的な隙を生む。
「私の『黄金の軌跡』も、あの強烈なダウンフォースの前では、コーナリング速度そのもので差をつけられるかもしれないわね……」
マキは冷静に状況を分析していたが、その瞳には明確な焦燥が浮かんでいた。
そんな三人の背後で、腕を組んで立っていた男がいた。
KRDの絶対的エース、神谷蒼である。
彼は今日、耐火スーツではなく、普段着のレザージャケット姿だった。
「どうした、お前たち。走る前から負けた犬のような顔をしているな」
神谷の冷ややかな声に、三人が一斉に振り返る。
「神谷さん、なんで今日は乗らねえんですか! 三菱の本気の新型ですよ!」
氷室が食ってかかると、神谷は冷たく鼻で笑った。
「俺が出れば勝つのは当たり前だ。そんな退屈なレースを、芳信社長が望むとでも思っているのか?」
神谷は三人を見据え、その言葉に絶対的な重みを乗せた。
「お前たちは九条の『牙』だろう。……俺の背中に隠れていないで、今回はお前たちだけで、あの三菱の鼻持ちならない翼を喰い殺してみせろ。できなければ、お前たちは一生、俺のテールランプを拝む資格すらない」
それは、絶対王者からの非情な試練であった。
三人の表情から一瞬にして甘えが消え、殺気立った闘争心が瞳に宿る。
「……言ってくれるじゃねえか。見ててくださいよ、教官殿」
赤星がヘルメットを被りながら、獰猛に口角を上げた。
シグナルが青に変わり、レースがスタートした。
「もらったぜ!」
氷室の『KRDターボ』が、凄まじいホイールスピンと共に爆発的なスタートダッシュを決める。
だが、第一コーナーへの飛び込みで、信じられない光景が展開された。
元撃墜王・真壁一輝の駆る『風神』が、氷室のターボパワーを一切の減速なしにアウト側から抜き去ったのだ。
「なっ……! あんな速度でコーナーに突っ込めるわけがねえ!」
氷室が驚愕の声を上げる。
続くS字コーナーの連続。
赤星の極限の軽量化によるシャープな回頭性をもってしても、強烈なダウンフォースで地面に完全に張り付いている『風神』の異次元のコーナリング速度には全く追いつけない。
タイヤのグリップ力に空力という見えない魔法の圧力を加えた『風神』は、コーナーのたびにKRDの三台との距離を残酷なまでに広げていく。
「くそっ! 直線なら!」
短いバックストレートで氷室がアクセルを床まで踏み抜くが、コーナーの立ち上がりで発生するターボラグの数秒の遅れが、真壁に完全に抑え込まれる。
マキもタイヤを温存しながら最短距離を縫うように走るが、マシンの絶対的な旋回速度の差はどうにもならなかった。
「なんてこと……。コーナーを曲がるというより、路面に爪を立てて引っ掻き回しているみたい……」
真壁の『風神』は、鈴鹿サーキットという舞台において、完璧なまでの最適解であった。
レース終盤。
真壁の『風神』が、KRDの三台を数秒以上引き離したまま、トップでチェッカーフラッグを受けた。
鈴鹿サーキットのグランドスタンドが、三菱の歴史的勝利に割れんばかりの歓声で沸き返る。
九条レーシング・ディビジョン(KRD)にとって、公式のレースにおいて初めて喫した、明確な「敗北」であった。
パドックが狂喜乱舞する中、赤星、氷室、マキの三人は無言でマシンを降りた。
彼らの顔は汗とオイルで汚れ、酷く強張っていた。
だが、そこにあるのは絶望ではなかった。
九条のプライドを傷つけられたことへの強烈な怒りと、己の未熟さへの憎悪、そして三菱に対するギラついた復讐の炎が、彼らの瞳の奥で静かに、しかし確実に燃え上がっていた。
同時刻。
帝都・品川の九条技術研究所、最上階の執務室。
九条芳信は、壁面の巨大なモニターで自軍の敗北の結果を見届けながら、怒るどころか、極上のヴィンテージワインのコルクを静かに抜いていた。
その隣で、若き天才エンジニアである真田源が、苛立ちを隠せない様子でタブレットを叩いている。
「……なぜですか、社長。私が設計した最新の『グランド・エフェクト』を応用した空力パーツを投入していれば、三菱のダウンフォースなど軽くひねり潰せたはずです。エンジンの出力曲線も、意図的に高回転域を制限している。……あなたは、わざと彼らを負けさせた」
真田の鋭い追及に、芳信はグラスに赤い液体を注ぎながら、薄く笑った。
実際、九条と三菱をはじめとする他メーカーの間には、依然として数十年規模の圧倒的な技術格差が存在していた。
芳信がその気になれば、鈴鹿で三菱に一周の周回遅れをつけることなど造作もない。
今回の鈴鹿戦において、芳信はあえてKRDのマシンから最新技術を剥ぎ取り、「出し惜しみ(デチューン)」を行っていたのである。
「真田、お前は優秀なエンジニアだが、人間の扱い方までは知らないようだな」
芳信はグラスを傾け、窓の外の帝都の夜景を見下ろした。
「赤星たち三人は優秀な『牙』だ。だが、神谷に守られ、九条の圧倒的なマシンの性能に守られ続けていれば、いずれその牙は鈍る。……負けを知らない犬は、本当に噛み殺すべき敵の喉笛の食いちぎり方を忘れてしまうのだ」
芳信の冷徹な言葉に、真田は押し黙った。
「それに、もう一つの理由がある」
芳信はモニターに映る、歓喜に沸く三菱のピットクルーたちを指差した。
「あの岩崎小弥太や羽村という男……彼らもまた、優秀な『部品』だ。常に九条に負け続けていれば、彼らはいずれ心を折り、開発を諦めてしまうだろう。ライバルには、たまに極上の『希望』という名の餌を与えてやらなければならない」
芳信の眼には、モータースポーツという熱狂のすべてをチェス盤の駒として操る、絶対的な支配者の狂気が宿っていた。
「『九条を倒せる』。そう錯覚した彼らは、国家予算規模の資金を注ぎ込み、さらに洗練された技術を生み出し、日本のモータースポーツの熱狂をさらに狂気的なレベルへと引き上げてくれる」
芳信はワインを飲み干し、不敵な笑みを深めた。
「……さあ、たっぷりと屈辱を味わえ、赤星。そして三菱よ、存分に美酒に酔うがいい。次に出会う時、私の『牙』たちは、お前たちのその翼ごと、希望を根こそぎ食い破ってやる」
夜の品川に、車バカの冷徹な、しかし熱を帯びた独白が静かに溶けていった。




