第76話:ダカールへの挑戦と、野生の証明
昭和二十九年(1954年)初頭。
視界のすべてを、気が狂いそうなほどの黄金色の砂と、残酷に照りつける太陽が支配していた。
アフリカ大陸、サハラ砂漠。
九条芳信がモータースポーツの「ワールド・ツアー」第一弾として世界に叩きつけた新たなる戦場、『パリ〜ダカール・ラリー』の過酷なステージである。
舗装されたサーキットという計算された箱庭を飛び出し、大自然という計算不可能な敵をねじ伏せるための、一万キロメートルにも及ぶ死のレース。
各国の自動車メーカーは国家の威信と莫大な予算を懸けてワークスマシンを送り込んだが、サハラの熱砂と岩肌は、彼らの誇りを容赦なく粉砕していった。
想定外の高熱でエンジンが焼き付き、隠れた岩にサスペンションをへし折られ、あるいは流砂にスタックして完全に身動きが取れなくなる。
エントリーした車両の半数以上が、すでに砂漠の藻屑と化してリタイアを余儀なくされていた。
その灼熱の地獄の中を、もうもうと砂煙を巻き上げながら爆走する漆黒の影があった。
九条レーシング・ディビジョン(KRD)が送り込んだ、四輪駆動のオフロード・プロトタイプマシンである。
「……っ! 右フロント、サスペンションのストローク限界値に接近。……次のクレスト(丘)は飛ぶな! ブレーキを踏め、氷室!」
振動で揺れるコクピットの中、助手席に備え付けられた分厚いナビゲーションマップと計器類に囲まれた若き天才エンジニア、真田源が声を張り上げた。
しかし、ステアリングを握る氷室涼は、獰猛な笑みを浮かべたままアクセルを緩めなかった。
「データばっかり見てねえで、外の砂の目を読め! ここで抜いたら、スタックして終わりだ!」
氷室はトラック用の巨大なターボチャージャーが組み込まれたV12エンジンを咆哮させ、砂丘の頂点に向かって真っ直ぐにマシンを放り投げた。
四つのタイヤが完全に宙に浮き、数秒の滞空時間の後、凄まじい衝撃と共に着地する。
「ぐあぁっ……!」
強烈な縦Gが内臓を押し潰し、真田は思わず胃液を込み上げさせたが、なんとか口を閉じて耐え抜いた。
(――まったく、なんてデタラメな男だ。サスペンションの許容値ギリギリで衝撃を逃がしやがった)
真田は車酔いと闘いながら、必死で計器の数値を読み取っていく。
サーキットとは違い、ラリーにおいてコ・ドライバー(ナビゲーター)の指示は絶対である。
だが、「直線の暴力」と「野生児」の異名を持つ氷室は、真田の精密な計算をことごとく己の直感で上書きし、乱暴なまでに砂漠を制圧し続けていた。
「へへっ、どうしたエリート様。ゲロ吐くなら窓の外にしろよ。九条さんの造った車が汚れるからな」
「……減らず口を叩く余裕があるなら、トラクションの変化に注意しろ。前方に、流動的な砂丘群が接近している」
真田の警告通り、視界の先に巨大な砂の波が立ち塞がった。
風によって常に形を変える、極めて柔らかく深い砂の海である。
氷室がアクセルを踏み込み、砂丘の斜面へ突入したその時、マシンの挙動に明らかな異変が生じた。
「チッ……! なんだ、出力が上がらねえぞ!」
アクセルを底まで踏みつけているにも関わらず、V12エンジンの回転数が強制的に抑え込まれ、車体がずるずると砂に沈みかけようとしている。
真田が即座に計器のパネルを叩いた。
「電子制御の介入だ! センサーが、四輪の異常なスリップ状態を検知して、スタックを防ぐためにトラクションコントロールを最大に効かせているんだ!」
九条のマシンには、芳信が開発した高度な姿勢制御システムが搭載されていた。
サーキットのアスファルト上では、タイヤの空転を瞬時に検知して出力を絞り、最高のグリップを維持するための「完璧な盾」である。
だが、この流動的な砂の海においては、その「安全な檻」が致命的な足枷となっていた。
「センサーの言う通りに走れ! データ上、これ以上のスリップアングルと出力は、駆動系のドライブシャフトをねじ切るぞ!」
真田はシステムのエラー音を聞きながら、叫ぶように指示を出した。
だが、氷室は血走った目でフロントガラスの先の砂丘を睨みつけた。
(――システムの言う通りに大人しく出力を絞れば、このまま砂の底に沈んで終わりだ。後ろからは欧州の連中が追ってきてるんだぞ)
「砂の上で、計算通りに走って勝てるか!」
氷室は咆哮し、ステアリングから片手を離すと、計器盤の奥に隠されていた電子制御アシスト機能のキルスイッチを、拳で物理的に叩き割った。
「なっ……! お前、狂ったのか!」
真田の制止をよそに、システムの「檻」から解き放たれたV12エンジンが、本来の凶暴な悲鳴のような爆音をサハラに轟かせた。
安全装置を失った四つの巨大なブロックタイヤが、制御不能なほどの出力を受けて激しく砂を掻き上げる。
車体は大きく横にスライドし、今にも横転しそうな挙動を見せた。
だが、氷室の真骨頂はここからだった。
彼は、刻一刻と変化する砂の流動を、センサーではなく自らの尻とステアリングを通じて「本能」で感じ取っていた。
「喰らいつけ、九条のエンジン……!」
絶妙なアクセルワークと、タイヤの空転を利用したカウンタードリフト。
氷室は、砂の波に逆らうのではなく、その流動に乗るようにして車体を滑らせ、巨大なエルグの斜面を強引に駆け上がっていく。
ドライブシャフトからは金属が悲鳴を上げるような軋み音が響いていたが、氷室の「野生の直感」は、機械が壊れる一歩手前の限界点を完全に見切っていた。
同時刻、地球の裏側。
帝都・品川のKRD開発室では、芳信、神谷、そして黒木伝蔵が、衛星通信を介して送られてくるテレメトリーデータを厳しい表情で監視していた。
突如、巨大なモニターに表示されていたマシンの姿勢制御データが赤いエラーを吐き出し、エンジンの出力値が危険なレッドゾーンへと跳ね上がった。
「おい! 姿勢制御のリンクが途絶えたぞ! あの馬鹿、安全装置を物理的に切りやがった!」
黒木が怒声と共にコンソールを叩く。
「駆動系に異常な負荷がかかっています。このままではシャフトが捩じ切れますよ」
神谷が冷静に、しかし緊迫した声で数値を読み上げる。
だが、芳信だけは、赤い警告灯の光に照らされながら、喉の奥で低く、歓喜の笑い声を漏らしていた。
「……いいぞ、氷室。そのまま行け」
芳信はモニターの向こう側、アフリカの熱砂で暴れ狂う自らの作品を幻視するように目を細めた。
「どれほど完璧な機械を造ろうと、最後に限界を超えるのは、人間の熱量と狂気だ。……氷室は、私の用意した『檻』を自力で破ってみせたのだ」
数日後。
大西洋の波が打ち寄せるセネガルの首都、ダカールの海岸線。
一万キロの過酷な旅を終え、ゴール地点に設定されたピンク・レイクの砂浜に、泥と砂にまみれ、外装のカウルが半分以上吹き飛んだ漆黒のマシンが飛び込んできた。
後続のライバルたちに数時間の圧倒的な差をつける、文句なしのトップでの帰還である。
歓喜に沸く現地の観衆と報道陣が殺到する中、コクピットのガルウィングドアが跳ね上げられた。
激闘を終え、精根尽き果てた真田源が、よろめきながら砂浜へと降り立つ。
彼の身体は極限の疲労と車酔いでボロボロだったが、その手には分厚いデータロガーの束がしっかりと握られていた。
「……電子制御を超えた、人間の直感と挙動。……ふふっ、最高のデータが取れましたよ、九条社長」
真田は砂に塗れた眼鏡の奥で、エンジニアとしての確かな充実感を噛み締めていた。
彼に続いてコクピットから降りてきた氷室涼は、煤と砂で真っ黒になった顔を拭いもせず、灼熱の太陽に向かって両手を広げた。
「やっぱり、九条さんの造るエンジンは最高にイカれてるぜ!」
氷室は獰猛な獣のように笑い、群がるカメラのフラッシュを浴びた。
宇宙という無機質な虚空を目指す九条家の野望の裏側で、地上では、人間の熱量と機械の咆哮が、過酷な大自然すらもねじ伏せる強烈な熱狂を生み出し続けていた。




