第74話:軌道上の冷戦と、星の海への招待状
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昭和二十八年(1953年)
極東の島国が発したモータースポーツの熱狂が世界を包み込む裏側で、人類の覇権を巡る闘争は、ついに重力の鎖を断ち切り、静寂なる真空の世界へとその舞台を移そうとしていた。
帝都・品川。
九条技術研究所の最深部に建造された巨大なプレゼンテーション・ホールには、異様な緊張感が満ちていた。
集められたのは、アメリカ、ソ連、イギリスをはじめとする各国の首脳陣、新設されたばかりの各国の宇宙開発機関の代表、そして世界中の主要メディアの記者たちである。
彼らの視線の先、巨大なスクリーンの前に、九条芳信と九条秀一の兄弟が並び立っていた。
「皆様、本日は遠路はるばるお集まりいただき、感謝いたします」
秀一がマイクの前に立ち、洗練された、しかし一切の反論を許さない威圧感を孕んだ声で語り始めた。
「先刻、我が大日本帝国が打ち上げた軌道上宇宙ステーション『高天原』のコアモジュールが、予定軌道への投入および初期稼働を完全に完了したことをご報告いたします」
ホールがどよめき、無数のフラッシュが瞬いた。
「これに伴い、我が国は『高天原』へのドッキングポートの設計図、および接続規格を、本日より全世界へ向けて無償公開いたします」
秀一の言葉は、一見すると人類の未来に向けた寛大な贈り物のように聞こえる。
だが、ここにいる各国の代表たちは、それが「九条の規格に首を垂れろ」という絶対的な服従の要求であることを理解していた。
たまらず、アメリカのアイアンサイド大統領の代理人として出席していた特命全権大使が立ち上がった。
「九条男爵、異議を申し立てたい。宇宙空間は全人類の共有財産であるはずだ。我が国は独自の技術と規格で宇宙進出を行う準備を進めている。特定の国家のインフラに依存し、事実上の独占を許すような体制には賛同しかねる」
それに同調するように、ソ連の代表団からもロシア語で激しい抗議の声が上がる。
「社会主義国家の威信にかけて、資本主義の檻に組み込まれることなど断じて拒否する! 我々は独自のステーションを建設する!」
ホールは騒然となり、記者たちがペンを走らせる音が響く中、秀一の横で退屈そうに腕を組んでいた芳信が、ゆっくりとマイクへ歩み寄った。
「……あなた方は、本当に何も分かっていませんね」
芳信の冷たい声が響くと、ホールの喧騒が嘘のように静まり返った。
芳信は背後のスクリーンを指差した。
そこに映し出されたのは、美しい青い地球と、それを取り巻く見えない磁力線、そして太陽から吹き付ける強烈なエネルギーの波を描いたシミュレーション映像だった。
「自国独自の規格で宇宙へ行く? 結構なことです。ですが、その前に一つ教えて差し上げましょう」
芳信の瞳には、無知な者を見下す冷徹な光が宿っていた。
「あなた方が今、この地球上で呑気に主権だのイデオロギーだのと叫んで生きられているのは、地球の磁場が、太陽から降り注ぐ致死量の放射線を弾き飛ばしてくれているからです。しかし、低軌道を越え、ヴァン・アレン帯と呼ばれる放射線帯へ踏み込めば、その薄っぺらい守りは完全に消滅します」
スクリーン上の映像が切り替わり、宇宙船に降り注ぐ宇宙放射線の図解が表示される。
「高エネルギーの陽子や重粒子が飛び交う真空の空間は、あなた方が想像する以上に明確な『殺意』に満ちています。既存の鉛やコンクリートの装甲で宇宙船を覆えば、重すぎて地上から打ち上げることすらできません」
各国の技術者たちの顔色が悪くなり始める。
「ならば、軽量な金属で覆えばどうなるか。……太陽風を受けた薄い金属板は『二次放射線』を発生させ、カプセルの中にいるパイロットを、確実に被爆させて殺します」
芳信は淡々と、しかし残酷な物理の現実を突きつけた。
「我が九条自動車の航空宇宙部門は、数千回におよぶシミュレーションの末に、この問題を解決しました。それが、特殊な積層構造を持つ『多層特殊合金』と、機体周囲に磁場を展開する『強力な電磁シールド発生装置』です。この二つを組み込んだモジュールでなければ、人間が長期間宇宙に滞在し、生きて帰ってくることなど物理的に不可能です」
芳信は薄く笑い、各国の代表たちを真っ直ぐに見据えた。
「そして、当然の話ですが、この高度な電磁シールドの磁場制御と完全に同期できるのは、我が社が提供する『九条規格』のドッキングポートのみです」
ホールは、息を呑む音すら聞こえるほどの死寂に包まれた。
それは外交的な駆け引きでも、政治的な圧力でもない。
宇宙空間という過酷な自然環境において、九条の技術がなければ「物理的に死ぬ」という、身も蓋もない現実だった。
「我が社の規格に繋ぎたくないと言うのなら、止めはしません。……死にたければ、勝手に自国の鉄屑に乗って宇宙へ上がれば良いでしょう」
芳信の冷酷な宣告の前に、反発していたアメリカやソ連の代表団は反論の言葉を失い、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。
同じ頃、アメリカ・ワシントンD.C.。
ホワイトハウスの大統領執務室では、アイアンサイド大統領が東京からの報告を受け、重い沈黙に沈んでいた。
「……つまり、我々が地球の軌道上に何かを打ち上げようとすれば、すべて九条のステーションの管理下に置かれ、監視されるということか」
アイアンサイドは葉巻の煙を深く吐き出した。
彼らがモータースポーツで熱狂している裏で、宇宙空間という絶対的な「高所」を完全に制圧されたという屈辱。
超大国アメリカのプライドとして、このまま九条の完全な従属下に入ることは絶対に許されなかった。
「長官。地球の低軌道が奴らの庭だというのなら、我々はさらにその上を目指す」
アイアンサイドは決断の光を瞳に宿し、机上の書類を強く叩いた。
「九条のインフラに頼らず、一足飛びに『月』へ到達する。奴らが軌道上で監視網を完成させる前に、我々は月面から地球を見下ろしてやるのだ」
それは、国家予算の莫大な投資を伴う超巨大プロジェクト『アポロ計画』の、数年規模の前倒しを意味する狂気の決断であった。
一方、雪に閉ざされたソ連・モスクワ。
クレムリンの地下深くにある極秘施設で、書記長ヨシフ・スターリンは猜疑心に満ちた目で報告書を睨みつけていた。
「九条の平和的な宇宙ステーション計画だと……? くだらん。あれは究極の軌道上監視塔に過ぎない」
スターリンは、九条の技術に依存すれば、いずれ国家の存亡すら握られるというパラノイア的な恐怖に駆られていた。
「同志よ、有人宇宙飛行計画は後回しで構わん。九条のシールドなど不要な、『無人』の軍事用人工衛星の開発を最優先で急がせろ」
それは、パイロットの命を切り捨ててでも、九条の通信網に依存しない共産圏独自の軍事通信・偵察網を構築し、見えない宇宙の戦争に備えるという赤き野望の胎動であった。
世界が宇宙空間の覇権を巡って狂奔し始めた数日後。
品川の九条自動車本社、芳信の執務室に、統合防衛司令部の進藤拓也中将が極秘裏に招かれていた。
「芳信様、各国の動きが活発化しています。アメリカは月を目指し、ソ連は無人衛星に特化するつもりのようです」
進藤の報告を聞きながら、ソファーでくつろいでいた秀一が「彼らも必死だな」と面白そうに笑う。
だが、図面から顔を上げた芳信の表情は、どこまでも冷淡だった。
「宇宙など、より真球に近いベアリングや、均一な合金を作るための、無重力で超低温の作業場に過ぎない。……俺の目的はあくまで、地上を走る最高の車を造ることだ」
芳信にとって、宇宙空間とはインフラの置き場所であり、究極の部品工場でしかなかった。
だが、芳信は図面を丸めてゴミ箱に放り投げ、進藤を見据えた。
「とはいえ、アメリカが月を目指して重いロケットを造るというなら、我々は彼らより速く、より重いものを運べる『矛』が必要になる」
芳信は机の引き出しから、一枚の巨大な設計図を取り出し、進藤の前に広げた。
そこには、既存の化学ロケットとは全く異なる、電磁力を用いた恐るべき推進システムの雛形が描かれていた。
「進藤。火薬の力でチマチマと鉄を飛ばす時代は終わりだ。これからの宇宙開発は、電磁力で地球の重力をねじ伏せる」
進藤は、その図面が意味する破壊的な推力とエネルギー量に息を呑んだ。
地上でF1マシンがタイヤの限界を削り合っているその裏側で、宇宙空間という過酷な自然環境すら、己の車造りのための「究極の工場」へと変えようとする九条芳信の果てしない執念が、次なる狂気を生み出そうとしていた。




