第73話:黄金郷の狂熱、あるいは終わらない夢
昭和二十七年(1952年)春、夕刻。
『九条国際サーキット』のグランドスタンドは、五百キロメートルに及ぶ死闘を見届けた数万の観客たちによる、地鳴りのような歓声と拍手に包まれていた。
夕日に赤く染まるメインストレートに設営された、巨大な表彰台。
そこに立つ三人の戦士たちは、耐火スーツを黒く汚し、オイルと汗、そして極限の疲労にまみれながらも、これ以上なく誇り高き表情を浮かべていた。
中央の最も高い位置には、絶対的な「矛」として物理限界の壁を打ち破り、勝利をもぎ取った九条の神谷蒼。
その右には、知性と戦略で神谷を0.012秒差まで追い詰めた「黄金の知性」こと、橘マキ。
左には、三菱の誇りを懸け、最後まで二人に食らいついて三位に滑り込んだ元撃墜王、真壁一輝。
シャンパンの白い泡が夕日の中で弾け飛び、世界中から集まった記者たちのフラッシュの嵐が、新しい時代の英雄たちを眩く照らし出す。
その熱狂が最高潮に達した最中、不意にサーキットの巨大スピーカーから、九条芳信の落ち着き払った声が響き渡った。
「本日は、歴史的な死闘を見届けていただき、誠にありがとうございます。限界を超えて走り抜いた勝者たちへ、九条から最大の敬意と、ささやかなサプライズを贈らせていただきます」
公の場に向けられた芳信の口調は、洗練された経営者としての丁寧さを保ちながらも、その奥に隠しきれない熱情を帯びていた。
芳信の言葉が終わるか終わらないかの瞬間、空を物理的に切り裂くような凄まじい爆音が、群馬の山々を大きく震わせた。
観客たちが一斉に悲鳴のような歓声を上げ、空を見上げる。
夕焼け空の彼方から、完全な編隊を組んだ五機の最新鋭ジェット戦闘機『海神』が、超低空でサーキットのメインストレート上空へと突入してきたのだ。
圧倒的な速度と、大気を引き裂く轟音。
機体の尾部からは赤、白、青の鮮やかなカラースモークが曳かれ、群馬の空に巨大で美しい軌跡を描き出していく。
それは、九条の航空宇宙部門と日本の統合防衛司令部が総力を挙げて演出した、人類最速の戦士たちへの壮大な祝賀飛行であった。
「ははっ、やりやがる。あんな馬鹿げた真似、空の連中にしかできないぜ」
真壁が空を見上げ、元パイロットとしての血を騒がせながら、無邪気な少年のように笑った。
「教官への最高のご褒美ね。でも、次は私が一番高いところで、あのスモークを見上げてみせるわ」
マキがシャンパンのボトルを掲げながら、隣の神谷に挑戦的な視線を送る。
神谷は無言でスモークの軌跡を見つめ、珍しく満足げにわずかに口角を上げていた。
航空ショーの爆音が遠ざかると、再びスピーカーから芳信の声が響いた。
今度は、VIPルームの広大なバルコニーに姿を現した芳信自身が、マイクを握って群衆に直接語りかけていた。
「皆様、この『緑の地獄』での闘争は、単なる始まりに過ぎません。速度という名の魔法に魅入られた我々は、もはや以前の退屈な世界へ後戻りすることなどできないのです」
数万の観客たちは息を呑み、世界を支配する技術総帥の次の言葉を待った。
「本日をもって、我々は『全日本モータースポーツ・全国ツアー』、ならびに世界各国を巡る『ワールド・ツアー』の開催を宣言いたします。そして、舞台はサーキットのアスファルトだけではありません。雪道、泥濘、砂利道など、ありとあらゆる過酷な自然環境を舞台にしたオフロード・ラリー選手権も同時に開幕させます」
そのスケールの大きさに、会場全体が期待と興奮でどよめいた。
「しかし、モータースポーツは決して一部の資産家や、大企業のワークスチームだけのものであってはなりません。私は、もっと多くの、無名の情熱に出会いたいのです」
芳信は手すりに身を乗り出し、サーキット全体を包み込むように、力強く、そして優しく語りかけた。
「資金力が無くとも、知恵と技術と情熱だけで参加可能な、新たなレギュレーションのレースを新設いたします。下町の鉄工所の職人でも、東北の農家の青年でも構いません。ガソリンの匂いを愛し、速度に魅入られた者であれば、誰もがこの祭典の主役になれるのです」
この言葉に、観客席のあちこちから割れんばかりの大歓声が上がった。
ピットの隅で見ていた予選落ちのプライベーターたちも、その言葉を聞いて涙ぐみながら拳を握りしめている。
「どうか、皆様のガレージで車を創り上げてください。そして限界までアクセルを踏み込み、私に、まだ誰も見たことのない景色を見せてください」
芳信の丁寧でありながらも狂信的な演説は、日本中、いや世界中のモーターファンの心に、永遠に消えない熱狂の火を点けた。
その様子をVIPルームの奥で静かに見守っていた秀一が、隣の綾子にそっと耳打ちした。
「芳信はついに、世界中を自分の巨大な遊び場に改造してしまったようだな」
「ええ。でも、それが世界を一番平和に保つ方法なのでしょう? お義兄様が用意した『法と規格の檻』の中で、みんな嬉々として限界まで走り回っているわ」
綾子は優しく微笑みながら、狂ったように熱狂する観客たちを見下ろした。
圧倒的な技術と資本で世界を牽引しながら、その中心で誰よりも純粋に「速度」を愛し続ける九条芳信。
冷徹な理知と政治力で国際社会の反逆を完封し、盤石の秩序を築き上げた九条秀一。
二つの圧倒的な力が生み出した新時代の日本は、狂熱と平和が完全に同居する、世界で最も輝かしい黄金郷としてここに完成したのである。
熱狂のピークを迎えたグランドスタンドの彼方へ、ジェット戦闘機のスモークが夕闇にゆっくりと溶けていく。
エンジンの咆哮と人々の歓声は、夜の帳が完全に下りるまで、群馬の山々にこだまし続けていた。
第5章完結です。
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