第七話:黒い錬金術と、財閥の血
一九二四年(大正十三年)八月。
世間では、東洋一の規模を誇る甲子園大運動場が完成し、復興の希望として人々の熱狂を集めていた。
だが、そんなスポーツの熱気とは無縁の九条技術研究所の片隅で、俺たちは強烈な硫黄の異臭にまみれながら「黒い錬金術」の最終段階を迎えていた。
「坊っちゃま。ついに、やりました。硫黄による加硫プロセスの温度管理と、微小な炭素粒子の均一な配合……完璧です」
八幡製鉄所から引き抜いた材料技師の佐々木が、防毒マスクを外し、汗だくの顔で報告してきた。
傍らでは、ドイツ人化学者のシュミットが興奮に震える手で、鈍い光沢を放つ黒い塊を掲げている。
「引っ張り強度、耐摩耗性、そして熱への耐性。どれをとっても、これまで使っていた輸入品の高級天然ゴムを遥かに凌駕しています」
「よくやってくれた。さっそくプロトタイプに組み込んで、限界テストだ」
翌朝、俺は黒いタイヤを履かせたプロトタイプの運転席に座り、テストコースの直線でアクセルを床まで踏み抜いた。
グォォォォォン!!
時速八十キロを超え、かつて輸入品のタイヤが耐えきれずにバーストした領域へと突入する。
だが、黒いタイヤは悲鳴を上げることなく、二・〇リッターエンジンの強烈なトルクと車体の重量を完璧に受け止め、コンクリートの路面を力強く蹴り続けた。
「……完璧だ。これで、俺のエンジンの全力を路面に叩きつけることができる」
最高のエンジンと、それに耐えうる足回りが完成した。
次は、この車を世に放つための「量産工場」を確保する番だ。
その日の午後、俺はテスト走行のデータと図面を抱え、父・正和と共に丸の内にある三菱合資会社の本社ビルを訪れていた。
重厚なマホガニーの長机を挟み、三菱のトップである岩崎小弥太をはじめ、各部門を統括する重役たちが、冷徹な目で俺たちを見下ろしている。
「九条男爵。ご子息の造った車が、輸入品を凌ぐ性能を持っていることは認めましょう。ですが、自動車の国産化などという事業に、三菱が巨額の設備投資を行うのは無謀というものです」
銀行部門を統括する重役が、俺の提出したデータを机に置きながら冷ややかに告げた。
当時の日本の資本家にとって、欧州の背中が遠すぎる自動車産業は「割に合わない金食い虫」だった。
「無謀ではありません。三菱が今、この事業の主導権を握らなければ、いずれアメリカの巨大資本に日本の工業そのものが食い尽くされます」
俺は父の隣から身を乗り出し、机の上に車両の透視図を広げた。
「この『九条型一号車』は、悪路走破を前提に設計した後輪駆動車です。強固なハシゴ型フレームに、低回転で強大なトルクを発揮するエンジンを載せている。部品点数を極限まで減らし、整備性も確保しました。生産力が証明されれば、陸軍の新型輸送車コンペで、確実に制式採用を勝ち取れます」
「……軍に採用されたとして、それだけで三菱を動かすには弱すぎるな。一般に普及させるには、自動車は高価すぎる。投資の回収に何十年かかるか分からんぞ」
造船部門の重役が鼻で笑う。
「車単体で儲ける必要はありません。九条の車が育てば、鉄鋼、ゴム、そして燃料となる石油まで、巨大な産業の連鎖が生まれる。三菱の持つ重工業の権益を最大化するための、先行投資だとお考えください」
俺はそう締めくくると、椅子から飛び降りて、驚くべき提案をした。
「岩崎さん、それに重役の皆様。言葉で説明するより、僕の車に乗ってみませんか? 中庭に用意してあります」
三菱本社の中庭。
そこには、アルミニウム製の流線型ボディに、鈍く光る黒いタイヤを履いた「九条型一号車」が待機していた。
「……ほう、これが君の造った機械か」
岩崎小弥太が興味深そうに後部座席に乗り込む。
隣には父・正和が座り、他の重役たちは半信半疑の顔で遠巻きに見守っている。
「芳信、くれぐれも失礼のないようにな」
父の緊張した声を背に、俺はスターターボタンを押し込んだ。
ズバァン!!
四気筒エンジンが目覚め、重厚な爆音を石造りの社屋に反響させる。
重役たちがその音圧に驚いて一歩後ずさった。
俺は一速に入れ、アクセルを踏み込みながらクラッチを繋いだ。
キュッというタイヤの短い鳴きと共に、約15kgのトルクが後輪に伝わり、車体は強烈なGを発生させて加速した。
狭い中庭を猛烈な勢いで旋回し、わざと未舗装の荒れた砂利道に突入する。
通常の車なら激しく跳ね、乗員の腰を痛めるような悪路だが、俺の設計した摩擦軽減材入りのリーフスプリングとしなやかな黒いタイヤは、衝撃を的確に吸収し、車体の姿勢をフラットに保ち続けた。
荒れた路面でも後輪が確実にトラクション(駆動力)を路面に伝え、一切の横滑りを見せずに力強く前進していく。
「なっ……なんという安定感だ! 馬車とは次元が違う!」
後部座席で岩崎小弥太が身を乗り出した。
停止した直後、岩崎は興奮で顔を紅潮させ、俺の小さな肩を強く掴んだ。
「……信じられん。これが六歳の子供の造った車だと? 九条男爵、これはもはや単なる車ではない。日本の工業がアメリカを追い越すための、鉄の戦艦だ」
重役たちも、先程までの冷笑を消し去り、食い入るように一号車を見つめている。
岩崎小弥太の目が、投資家のそれから、国家の命運を賭ける勝負師の目へと変わった。
「よかろう。品川の工場は貸し出そう。最新の工作機械の手配も三菱が引き受ける。その代わり、フォードを黙らせる世界一の車を造れ。いいな、芳信君」
「ええ。期待以上のものを造ってみせますよ」
三菱という巨大な後ろ盾と生産力を、俺はその圧倒的な走りで勝ち取ったのだった。
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