第六話:暁のテストランと、ゴムの悲鳴
一九二四年(大正十三年)六月。
世間では、先の総選挙で圧勝した護憲三派による加藤高明内閣が発足し、帝都は「民主主義の勝利だ」と沸き立っていた。
だが、俺にとってこの春の最大のイベントは、内閣の発足などではなく、学習院初等科への入学だった。
「芳信、制服は窮屈ではないかい? 今日からお前も、立派な学習院の一年生だね」
母・静子が嬉しそうに、俺の小さな体に仕立ての良い詰襟の制服を合わせた。
兄の秀一も誇らしげに俺を見ているが、俺の心は一刻も早くこの窮屈な服を脱ぎ捨て、オイルの染み付いた作業着に着替えたいという欲求で埋め尽くされていた。
実際、入学式から数日が経つと、俺は教師たちの講義を「退屈だ」と一蹴し、父・正和に頼み込んで出席日数を操作させ、週の半分を工房で過ごすという特権を行使し始めていた。
九条家の敷地の半分を潰して造り上げたテストコース。
まだ夜も明けきらない暁の光の中、完成したばかりのプロトタイプが、朝露に濡れたコンクリートの上に鎮座していた。
ボディはない。
黒光りする頑強なラダーフレームに、俺が心血を注いで設計したエンジンが載っている。
構造は単気筒の延長である水冷直列四気筒、オーバーヘッドカムシャフト(OHC)方式を採用し、排気量は二・〇リッターだ。
さすがにこの時代の加工精度でDOHCは時期尚早と判断し、堅実かつ高効率なOHCに留めたが、それでも当時の基準からすれば十分すぎるほどのオーパーツである。
ボア八十二ミリ、ストローク九十四・四ミリのロングストローク型で、燃料供給には俺が自作した九条式噴霧気化器を備えている。
最高出力は三千二百回転で五十馬力を発生させ、最大トルクは千八百回転という低回転域で十四・五キロを叩き出す、実用トルク重視のモンスターマシンだ。
「芳信坊ちゃま……本当に、ご自身で運転なされるのですか? せめて私が」
主任技師の黒木が、心配そうに俺を見下ろしている。
「駄目だ。初めて火を入れた車の最初の鼓動は、設計者である俺自身が感じなければ意味がない」
俺は六歳の短い足を上げ、よじ登るようにして運転席に座った。
当然、そのままでは足がペダルに届かないため、クラッチ、ブレーキ、アクセルの各ペダルに特製の木製ブロックをボルトで固定し、さらに座布団を三枚重ねて視線を合わせた。
「進藤大尉。陸軍から引っ張ってきたあのタイヤ、空気圧は指定通りに?」
コースの脇で腕組みをしている進藤に声をかけると、彼は呆れたような、しかしどこか期待に満ちた顔で頷いた。
「ああ。指定通りだ。だが坊ちゃん、死なないでくれよ。あなたが死ねば、陸軍の輸送計画は頓挫する」
「死ぬもんか。俺はまだ、何も走らせちゃいないんだから」
俺は革の手袋をはめ、ステアリングを強く握りしめた。
「点火系、オン。チョーク引いて……燃料、良し」
俺はステアリングの脇に設けたスターターボタンを押し込んだ。
キュキュキュキュッ、ズバァン!!
早朝の冷たい空気を切り裂き、四つのシリンダーが完璧な調和で爆発を始めた。
単気筒の時とは全く違う、連続的で滑らかな、それでいて野獣のような重低音。
クロムモリブデン鋼のクランクシャフトが毎分千回転のアイドリングを刻み、車体全体が微かな、しかし力強い生命の振動に包まれる。
「クラッチ切る……一速、イン」
重いシフトレバーを腕全体で押し込み、ギアを噛み合わせる。
俺は息を大きく吸い込み、アクセルペダルの木製ブロックをじわりと踏み込みながら、クラッチを慎重に繋いだ。
グンッ!
その瞬間、大排気量エンジンの太いトルクが後輪に伝わり、ボディを持たない軽量な車体をスルスルと前へ押し出した。
「おおっ!」
見守っていた黒木たちが驚きの声を上げる。
まずは低速での基本動作の確認だ。
俺はステアリングを左右に軽く切り、ブレーキの効きを確かめながら、ゆっくりとコンクリート路面を進んでいく。
摩擦軽減材を挟み込んだリーフスプリングが、車体の細かな揺れをしっかりと吸収しているのが分かる。
「基本動作は完璧だ。次はサスペンションの限界を見る」
俺は呟き、意図的に造らせた泥濘地のセクションへとステアリングを切った。
深く掘れた泥のわだちが車体を激しく揺さぶる。
だが、頑強なラダーフレームは歪みを許さず、足回りが路面の凹凸を的確に捉え続ける。
泥を高く跳ね上げながら、プロトタイプは悪路を確かな足取りで突き進んだ。
コースの脇で見ていた進藤大尉が、軍帽を吹き飛ばされながらも、驚愕に目を見開いているのが見えた。
「よし、悪路での捻れはない。次は中速域での耐久テストだ」
泥濘地を抜け、再びコンクリートの直線へ入り、俺は二速、三速へとシフトアップしていった。
俺は慎重にスロットルを開け、エンジンのレスポンスとステアリングの接地感を確認していく。
事前の計算では、この輸入品の天然ゴムタイヤでも、時速五十キロ程度までの低中速域なら耐えられるはずだった。
「……よし、異音はない。各部の油温も安定しているな」
俺は徐々に負荷を強めていく。
だが、三速に入れ、回転数を二千回転付近まで上げたその瞬間。
右後方から、不吉な剥離音が聞こえた。
バアァァァン!!
耳をつんざくような破裂音と共に、車体の右後方がガクンと沈み込んだ。
「くそっ、セパレーション(層間剥離)か!」
俺は即座にクラッチを切り、カウンターステアを当ててブレーキを慎重に踏み込んだ。
停止した車体の下で、右後輪は無惨に引き裂かれていた。
静寂が戻ったテストコースに、アイドリングの排気音だけが響いている。
「坊っちゃま! 芳信坊ちゃま!!」
顔面を蒼白にした黒木と進藤が、慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫だ……。黒木さん、見てくれ。ゴムの内部がボロボロだ」
俺は千切れたゴムを指差した。
「輸入された時点での品質は確認していたはずですが……」
「いや、保存状態か、あるいは製造から時間が経ちすぎていたんだ。当時の天然ゴムは経年劣化に弱すぎる。俺のエンジンの低回転からのトルクに、このゴムの結合力が耐えられなかったんだ」
俺は悔しさに唇を噛んだ。
計算上のスペックは満たしていても、素材そのものの信頼性が大正という時代に縛られている。
「鉄の次は、ゴムか……。それも、ただのゴムじゃない。カーボンブラックによる補強と、鮮度の管理まで徹底した専用のタイヤを造らせるしかないな」
俺の呟きに、状況が飲み込めない進藤が唖然としていた。
「車はできた。次は、タイヤだ。そして……道だ」
俺は油まみれの顔で、塀の向こうの泥だらけの公道を見据えた。
日本の道路を、平坦なアスファルトで覆い尽くしてやる。
車バカの情熱は、もはや一つの工房には収まりきらない。
エンジンが咆哮を上げたこの日、俺の車への愛情は、国家のインフラそのものを造り変える段階へと足を踏み入れたのだった。
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