第五話:軍靴と歯車
一九二三年(大正十二年)十二月。
冷たい木枯らしが吹き荒れる帝都・東京は、九月の未曾有の大震災からいまだ立ち直れずにいた。
その傷跡に塩を塗るかのように、我々帝国陸軍、そして大日本帝国全体を震撼させる大事件が起きた。
虎の門事件――。
摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が乗車された御召自動車が、無政府主義者の青年に狙撃されたのだ。
殿下は奇跡的に無傷であらせられたが、警護の不手際は言い逃れできるものではなく、山本権兵衛内閣は総辞職へと追い込まれた。
陸軍省内の空気は、文字通り凍りついている。
「進藤大尉。貴様の報告書は、何度読んでもふざけているとしか思えんのだがな」
執務室の重厚な机の向こうで、私の上官である連隊長が、苛立たしげに書類を放り投げた。
「九条男爵家の五歳の次男が、海軍と三菱を巻き込んで『新型の内燃機関』の権利を牛耳っているだと? しかも、その技術は我が陸軍のすべての車両を過去の遺物にする性能を秘めている、と?」
「はっ。信じ難いこととは存じますが、あの震災の夜、私がこの目で見た放水能力は本物です。あの小型で高出力な動力源を車両に搭載すれば、泥濘や瓦礫をものともしない最強の輸送部隊が誕生いたします」
私は直立不動のまま、必死に上官を説得した。
虎の門事件の後、軍内部では「要人警護に適した、より堅牢で高速な装甲自動車」の開発を求める声が急激に高まっている。
だが、軍の上層部はいまだに「騎兵こそが花形」という旧態依然とした思想から抜け出せず、自動車など馬の代用品程度にしか考えていないのだ。
「戯れ言を言うな! 五歳の幼児が政治の根回しをして、技術開発を指揮するなどあり得ん。九条の当主が、海軍と結託して予算をかすめ取ろうとしているだけだろう。そんな得体の知れない機械より、良質な軍馬の育成に予算を回すのが筋だ」
連隊長の怒声が室内に響く。
私は奥歯を強く噛み締めた。
彼らは分かっていないのだ。
九条芳信という、あの幼い皮を被った怪物の恐ろしさを。
そして、彼が持つ技術が、世界の軍事バランスを根底から覆す「力」であることを。
「……連隊長殿。海軍はすでに、あのエンジンを使った小型内火艇の開発に予算をつけております。このままでは、陸軍は技術的にも政治的にも、海軍に遅れをとることになります」
私が切り札としてその事実を告げると、連隊長の眉がピクリと動いた。
陸軍にとって、最大の仮想敵国はロシアやアメリカではない。
身内である「海軍」こそが、最も出し抜かれてはならない相手なのだ。
「……チッ。忌々しい水兵どもめ。よかろう、進藤。お前に特命を与える。九条の工房に張り付き、その『怪物エンジン』とやらが本物かどうか見極めろ。もし使える代物なら、手段を選ばず陸軍の主導権をもぎ取ってこい」
「はっ! 承知いたしました!」
私は敬礼し、足早に執務室を後にした。
翌年、一九二四年(大正十三年)一月。
世間では、清浦奎吾による超然内閣が発足し、それに反発する政党政治家たちが「第二次護憲運動」の狼煙を上げ、議会はかつてないほどの混乱を見せていた。
国家の仕組みそのものが大きく揺れ動く中、私は三ヶ月ぶりに九条家の敷地を訪れていた。
震災の瓦礫は片付けられていたが、驚くべきことに、かつて美しい日本庭園があった場所は、広大なコンクリート張りの平地へと変貌していた。
「これは……いったい……」
「ようこそ、進藤大尉。お待ちしておりました」
背後から声をかけられ、振り返ると、そこには六歳になったばかりの九条芳信が立っていた。
上等な仕立ての外套を着ているが、その手は機械油で黒く汚れている。
「芳信坊ちゃん……この庭は、いったいどうしたのですか」
「テストコースですよ。これから僕が造る『車』には、限界を試すための平坦な道と、過酷な負荷をかけるための泥濘地が必要ですからね」
六歳の子供が、自邸の庭を潰して車のテストコースを造る。
その常軌を逸したスケール感に、私は目眩すら覚えた。
「さあ、こちらへ。ちょうど、最初の『骨格』が組み上がったところです」
芳信に案内されて足を踏み入れた新しい工房は、もはや個人の離れなどではなく、完全な「小規模軍需工場」の様相を呈していた。
八幡製鉄所の技師たちに加え、海軍の軍服を着た技術将校たちの姿まである。
その中央に鎮座していたのは、鈍く光る巨大な鉄の枠組みだった。
「これは……車の台車、ですか」
「ラダーフレームです。これまでの自動車は、馬車と同じ木製の骨組みに毛が生えた程度のものだった。ですが、僕のエンジンが発生させる強大なトルクと、悪路での捻れに耐えるには、この『コの字型』断面を持つ鋼鉄のフレームが不可欠なんです」
芳信は、図面を片手に早口で説明を始めた。
その言葉には、一切の淀みも、子供らしい言い淀みもない。
「見てください、進藤大尉。前後の車軸を支えるこの板バネ(リーフスプリング)。従来のものはただ重ねただけでしたが、僕は各鋼板の間に特殊な摩擦軽減材を挟み込みました。これで、荷物を満載した状態でも、路面の衝撃を滑らかに吸収できます」
「……この重厚な金属の塊を、あの震災の時に回っていた小さなエンジンで動かすと言うのですか?」
私が呆然と尋ねると、芳信は鼻で笑った。
「まさか。あれはあくまで基礎研究用の単気筒です。このフレームに載せるのは、その単気筒を直列に四つ繋ぎ合わせた、排気量二・〇リッターの新型エンジンです。すでにベンチテストでは、五十馬力を安定して絞り出しています」
ごじゅうばりき、だと。
当時の陸軍が保有している最新鋭の外国製トラックでさえ、三十馬力程度しか出せないというのに。
「進藤大尉。陸軍省は、僕の技術を警戒しつつも、海軍に出し抜かれることを恐れてあなたを寄越した。違いますか?」
不意に、芳信の冷たい視線が私を射抜いた。
心臓を鷲掴みにされたような悪寒が走る。
六歳の子供が、陸軍参謀本部の内情を完全に看破している。
「……その通りです。坊ちゃん、あなたの目的は何ですか。海軍や財閥と手を組み、私のような軍の人間まで手玉に取って、一体何を企んでいるのですか」
私が思わず腰の軍刀の柄に手をかけると、芳信は全く動じることなく、ただ呆れたように肩をすくめた。
「企む? 大げさですね。僕はただ、『自分の理想の車』を造りたいだけですよ。でも、最高の部品を特注し、最高の設備で開発するには、莫大な資金と権力が必要になる。だから、あなたたち『戦争の準備に余念がない大人たち』に、便利な道具として出資してもらっているだけです」
「……我々を、出資者代わりだと?」
「ええ。だからこそ、陸軍にも素晴らしい提案があります」
芳信は、作業台の上に広げられた青写真の一枚を指差した。
「兵器ではありません。輸送用の『六輪トラック』の基本設計図です。後輪を二軸にして駆動させることで、泥濘地や雪道での走破性を飛躍的に高めます。この足回りを持った輸送車があれば、陸軍の補給線は従来の三倍の速度で構築できるはずです」
私はその図面を食い入るように見つめた。
精密なデファレンシャルギアの構造、路面追従性を極限まで高めたサスペンションの配置。
それがどれほど革新的な技術か、工兵出身の私には痛いほどに理解できた。
これがあれば、陸軍の戦略そのものが変わる。
「……これを、陸軍に提供すると?」
「ええ。ただし、開発資金の提供と、僕の『次なる計画』への全面的な政治的庇護を条件とします。政党政治家たちが騒いでいる今、軍事予算の確保は大変でしょうが……海軍にこの技術を持っていかれてもいいなら、お断りいただいても結構ですよ」
芳信は、六歳の幼児とは思えない、極めて邪悪で魅力的な笑みを浮かべた。
私は完全に敗北していた。
この小さな怪物は、大日本帝国陸軍という巨大な組織を、自分の車の部品の一部として組み込んでしまったのだ。
「……上層部には、私から掛け合います。必ず、あなたの要求する条件を引き出してみせましょう」
私が深く頭を下げると、芳信は満足そうに頷き、再び油まみれの工具を手に取った。
大正十三年、冬。
時代が民主主義の理想を掲げて揺れ動く裏側で、一人の「車バカ」の狂気が、確実にこの国の軍靴の歩幅を狂わせ始めていた。
私は、自らがパンドラの箱の鍵を開けてしまったことを自覚しながら、その鉄の咆哮に魅入られていくのを止められなかった。
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