第四話:父親の決断と、歪な家族
一九二三年(大正十二年)九月三日。
震災から二日が過ぎたが、帝都は未だにくすぶり続ける煙と、焼け出された人々の絶望に包まれていた。
私、九条正和は、煤で黒く汚れたままの書斎の窓から、奇跡的に焼け残った自らの屋敷の庭を見下ろしていた。
周囲の華族の屋敷も、庶民の長屋も、すべてが平等に灰燼に帰したというのに、我が九条家の敷地だけが、まるでそこだけ結界が張られたように無傷のまま残っている。
その中心にあるのは、離れの工房から絶え間なく聞こえてくる、あの低く規則的な機械音だ。
「旦那様。炊き出しの準備が整いました。門の前に避難してきている方々に、お粥を配らせていただきます」
背後から声がし、振り返ると、妻の静子が立っていた。
彼女の高級な着物も今は泥と煤で汚れきっているが、その表情には、周囲の悲惨な状況に似合わない、どこかふんわりとした穏やかさが漂っている。
「ああ、頼む。蔵の備蓄は惜しむな。水は……あの機械が、今も地下から汲み上げ続けてくれているからな」
私が答えると、静子は嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。芳信は本当に、すごい子ですね。あんな泥遊びのような機械で、私たちを火事から守ってくれるなんて。神様が九条家に遣わしてくださった、可愛い天使ですわ」
静子の言葉に、私は複雑なため息を呑み込んだ。
妻は、五歳の次男である芳信を、ただ「賢くて可愛い我が子」としてしか認識していない。
だが、あの日。
火の手が迫る中で、芳信は誰よりも早く動き、冷静に使用人たちに指示を出し、自らは祈るような真剣な面持ちでエンジンの調整に当たっていた。
その姿は、幼いながらも愛する機械と家族を命懸けで守ろうとするひたむきな職人そのものであり、使用人たちの士気を劇的に高めたのだ。
「お父様。芳信の様子を見てきました。避難してきた方々に、自らお水を配って歩いています」
扉から現れたのは、十歳になる長男の秀一だった。
秀一の表情は、弟への誇らしさと、それ以上に深い戸惑いに揺れている。
「そうか。あの子は、自分が造った機械が救った人々の顔を、自らの目で確認しているのだな」
「はい。でも、父様……。芳信は僕に、『お兄様が将来この国を背負う時、民の顔を知っておくことは必ず役に立ちます。共に行きましょう』と言ってくれました」
秀一は拳を握りしめ、視線を落とした。
秀一は優秀な跡取りだが、芳信の持つ、大人すら凌駕する先見性と気遣いを前にすると、どうしても己の幼さを突きつけられてしまう。
芳信は決して兄を蔑ろにせず、むしろ自分の持つ知識や経験を分け与えようと振る舞っている。
だが、そのあまりにも行き届いた配慮、そしてこの惨状を予見していたかのような備えの数々。
以前、あの子は私にこう言った。
「父様。僕はただ、自分の造りたい車が自由に走れる世界が欲しいだけなんです。そのためなら、僕はなんだってします」
あの子の行動のすべては、その一点に収束しているのではないか。
目の前の命を救うことも、家族を守ることも、そして三菱や海軍と裏で手を結ぶ知略も。
すべては「車を造る」という一個人の渇望を、国家という巨大な力から守るための防壁ではないのか。
もしそうだとすれば、五歳にしてこれほど冷徹に世界を俯瞰している我が子の精神の深淵に、私は底知れぬ畏怖を禁じ得なかった。
「旦那様、陸軍の進藤大尉がお見えになりました。緊急のお話があるとのことです」
使用人の声に、私は現実に引き戻された。
家族を奥の部屋へ下がらせ、私は急いで身だしなみを整えて応接間へと向かった。
進藤大尉は、泥と血にまみれた軍服姿のまま、焦燥しきった顔でソファに腰を下ろしていた。
「九条男爵。ご無事で何よりです。帝都は壊滅しました。陸軍省も参謀本部も大混乱です」
「進藤君も無事でよかった。それで、緊急の話とは何だね?」
私が問いかけると、進藤は鋭い目で私を見据えた。
「男爵。単刀直入に申し上げます。芳信坊ちゃんが造り上げたという、あの機械を、軍に接収させてはいただけないでしょうか」
私は小さく息を吐いた。
芳信が以前から、「父様、この技術はいずれ必ず狙われます。どうか守ってください」と私に懇願していた通りの展開だ。
「どういうことだ。あれは息子が心血を注いで造った機械だぞ」
「周囲が火の海になる中で、十時間以上も猛烈な水圧で放水し続けた機械が個人の所有物であって良いはずがありません。すでに避難民の間でも噂になっています」
進藤は身を乗り出し、声を荒げた。
「男爵! 今の軍には、機動力がないのです! 道路が寸断され、馬は火を恐れて役に立ちません。もし、あの機械のような耐久力と力を持つエンジンが我が軍にあれば……瓦礫を乗り越え、物資を運ぶ強力な足になる! これは国家の存亡に関わる技術です!」
進藤の言葉は、熱を帯びていた。
かつて、庭で泥遊びをする芳信を馬の代わりにはならないと笑っていた男が、今はそのエンジンに縋り付こうとしている。
「進藤君。君の言うことはもっともだが、軍による強制接収は不可能だ。実はな。あの研究所の設備と技術権利の半分は、すでに海軍省と三菱との間で共同管理とする仮調印が済んでいる」
「なっ……海軍と、三菱だと!?」
進藤が絶句し、顔から血の気を引かせた。
陸軍が強引に九条家の技術を奪えば、海軍と巨大財閥を同時に敵に回す政治問題に発展する。
芳信の進言通り、私はあらかじめ複数の権力が相互に監視する形を作っていた。
愛する技術が誰かに独占され、兵器としてすり潰されることを防ぐために。
あの子が望む「自由な開発環境」を守るためならば、私はこの子の盾として、泥臭い政治の海を泳ぎ切る覚悟を決めていた。
「軍には、私から直接話をつける。九条技術研究所を軍の管轄下に置くのではなく、陸軍、海軍、財閥の三者が九条家に開発を委託する形をとるのだ。芳信の夢は、誰にも奪わせない」
進藤は呆然と口を開けたまま、やがて深く息を吐いて崩れ落ちるように頷いた。
「承知いたしました。私から上層部に、その線で掛け合ってみましょう。ですが男爵、芳信坊ちゃんは……ただ車が好きなだけの子供ではありません。彼は、その車への愛情のためならば、世界の常識すらも造り変えてしまうでしょう」
進藤が去った後、私は一人応接間に取り残された。
窓の外からは、今日も変わらず、芳信の造ったエンジンが一定のリズムで重低音を響かせている。
あの五歳の息子は、ただ無邪気に、そして誰よりも真剣に、金属の塊に命を吹き込み続けている。
私は、自らが途方もない熱源を抱え込んでしまったことを、痛いほどに理解していた。
車オタクの魂が産み落とした鉄の心臓は、大正の焼け野原を舞台に、いよいよその本性を現そうとしていた。
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