第三話:帝都燃ゆ、機関吠ゆ
一九二三年(大正十二年)四月。
世間では、摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が台湾へ行啓されたという祝賀のニュースが、連日新聞の紙面を華やかに飾っていた。
そんな華やいだ外の空気とは無縁の場所で、五歳になった俺の肉体は、ようやく自分の足で工房の床を確かな歩幅で歩き回れる程度には成長していた。
九条技術研究所の奥。
機械油と鉄の匂いが充満する薄暗い空間で、八幡製鉄所から派遣された主任技師の黒木が、震える手でマイクロメーターを見つめていた。
「……信じられん。研磨の誤差、一万分の一ミリ。坊っちゃまが指定した図面通りの『真円』です」
黒木の声が、静まり返った工房に響く。
作業台の上に鎮座しているのは、鈍色の輝きを放つ一本のクランクシャフトだった。
ただの鉄ではない。
クロムとモリブデンを絶妙な比率で配合し、俺が前世の記憶から導き出した厳密な温度管理のもとで焼き入れを行った、この時代におけるオーバーテクノロジーの結晶だ。
「上出来だ、黒木さん。だが、まだこれは部品の一つに過ぎない。シリンダーブロックとピストンのクリアランスはどうなっている?」
「はい。そちらも坊っちゃまの仰る通り、熱膨張率を計算に入れた隙間を確保しております。それにしても……これほどまでに薄く、軽いピストンで、本当に爆発に耐えられるのでしょうか」
黒木は半信半疑の顔を隠そうとしなかった。
当時の常識では、強度は「厚みと重さ」とイコールだ。
俺が設計したアルミニウム合金の薄型ピストンは、彼らの目には紙細工のように頼りなく映っているのだろう。
「耐えられるさ。僕の計算に狂いはない。明日の朝、いよいよすべてのパーツを組み上げる。今日は休んでくれ」
俺は黒木たちを労い、一人工房に残った。
前世で愛した四気筒エンジンの咆哮。
まずはその基礎となる、排気量五〇〇ccの単気筒・OHCエンジン。
これが、俺が大正の世に産み落とす最初の「心臓」だ。
同年六月。
世間では、ワシントン海軍軍縮条約の余波で、建造途中の戦艦の廃棄や海軍工廠の縮小といった重苦しいニュースが、軍関係者を苛立たせていた。
国家が巨大な鉄の武力を手放し、持て余し始めている。
そんな歴史のうねりの裏側で、俺の工房では、新たな時代の幕開けとなる小さな鉄の心臓が、ついに最初の産声を上げようとしていた。
季節が梅雨に入る頃、工房に緊張した空気が張り詰める。
「燃料、通っています。点火プラグ、電圧正常……いきます!」
黒木が渾身の力でクランクハンドルを回す。
ガチュン、ガチュンと重い金属音が二度、三度と響き――次の瞬間。
ドウンッ!!
爆発音が空気を切り裂き、直後に連続した排気音が工房を震わせた。
ドルルルルルルルルルルル……!
「動きました……! 凄まじい勢いです! しかし、なぜこんなにも振動が少ないのですか!?」
黒木をはじめとする技師たちが、歓喜と驚愕の入り混じった声を上げた。
彼らが知る蒸気機関や初期のガソリンエンジンは、稼働すれば激しくガタガタと揺れ動くのが常識だった。
だが、ミリ単位以下の精度でバランス取りされた俺の単気筒エンジンは、台座の上で不気味なほど安定したまま、スムーズに回転数を上げていく。
俺は足台に乗り、スロットルバルブを慎重に開いた。
クオォォォォォン……!!
回転計の針が跳ね上がり、四〇〇〇回転を易々と突破する。
この時代、毎分千回転も回せば自壊するようなエンジンしか存在しない中で、俺の造り上げた心臓は金切り声を上げることもなく、ただ官能的な機械音を奏でながら極限の運動を続けていた。
「芳信……。巨大なボイラーもなしに、この小さな鉄の箱が、これほどの勢いで回るというのか。恐ろしいほどの熱気と迫力だ……」
見学に来ていた父の正和が、その圧倒的な存在感に気圧されたように呟く。
「これが内燃機関の力です、父様。蒸気機関のように無駄な場所は取りません。これを複数繋ぎ合わせれば、戦艦の主砲をも運ぶ動力が手に入ります。……ですが」
俺はスロットルを戻し、静かなアイドリング状態に戻した。
「次の実験に移ります。黒木さん、あらかじめ作らせておいた『大型の遠心ポンプ』を、このエンジンの出力軸に接続してください」
「ポンプ、ですか? 車輪ではなく?」
「ええ。このエンジンが、連続した高負荷に何十時間耐えられるか。その耐久試験には、大量の水を汲み上げ続けるのが一番です」
俺はもっともらしい理由を並べ立てた。
車輪をつけて走らせるには、まだシャシーもサスペンションも完成していない。
だが理由はそれだけではない。
大正のいつかに、関東大震災という未曾有の大災害が起こることは、俺も知識として知っている。
しかし、車という機械の構造ならネジの一本まで暗記している俺だが、歴史の授業にはひどく無関心だったため、それが『何年の何月何日』に起きるのか、正確な日付までは記憶していなかったのだ。
だからこそ、いつ大火災が起きてもいいように、俺は父の権力を使って屋敷の庭の池の底をさらに深く掘り下げ、地下水脈に直接繋がる井戸を何本も打ち込ませていた。
関東ローム層の奥深くに眠る無尽蔵の地下水。
それを吸い上げるための太い配管が、すでにポンプへと接続されている。
一九二三年(大正十二年)九月一日。
世間では、先月に急死したアメリカのハーディング大統領のニュースの余波が残る中、東京の街は二学期を迎える学生たちの活気で満ちていた。
その日は、朝からひどく風が強く、空にはどんよりとした雲が垂れ込めていた。
だが、海の向こうの訃報も、新学期の活気も、今の俺にはどうでもいいことだった。
俺の関心はただ、目の前で回り続けるエンジンがどこまで耐久できるかにしか向いておらず、外の不穏な空気には全く気づいていなかった。
時計の針が、午前十一時五十八分を指そうとしていた。
俺は工房の奥で、稼働中のエンジンと、それに直結された大型水ポンプの数値を記録していた。
「……坊ちゃま、お昼ご飯の用意ができましたよ」
お菊が工房の入り口から顔を出した、その瞬間だった。
ゴォォォォォォォ……!!
地の底から、巨大な獣が唸るような地鳴りが湧き上がった。
直後、立っていることなど到底不可能なほどの激しい縦揺れが、九条家の屋敷全体を跳ね上げた。
「きゃあっ!?」
お菊が悲鳴を上げて床に倒れ込む。
工房の棚から工具が雨のように降り注ぎ、分厚いガラス窓が次々と砕け散った。
「お菊、頭を抱えて伏せろ! 動くな!」
五歳の幼児の身体では、彼女を庇うこともできない。
俺は作業台の下に潜り込みながら、歯を食いしばって激震に耐えた。
永遠とも思える数分の揺れが収まった時、外からは人々の悲鳴と、家屋が倒壊する凄まじい轟音が響き続けていた。
俺が這い出すと、庭先の風景は一変していた。
美しい日本庭園は地割れによって引き裂かれ、父が自慢していたT型フォードは、倒壊した煉瓦塀の下敷きになって無惨に潰れていた。
「……坊ちゃま、坊ちゃま! お怪我は!?」
「僕は平気だ。それよりも、空を見ろ」
俺が指差す先、帝都の空のあちこちから、黒く禍々しい煙の柱が上がり始めていた。
強風に煽られ、火災は瞬く間に延焼していくはずだ。
木造家屋が密集する東京は、これから巨大な火の海と化す。
「旦那様を探さなければ……! 水道も、止まってしまっています!」
パニックに陥るお菊を尻目に、俺は工房の奥へ駆け戻った。
各所を補強していた俺の工房とエンジンと水ポンプは、無傷で台座の上に鎮座していた。
地下水脈への配管も、燃料タンクも生きている。
「黒木さん!! 生きているなら手伝ってくれ!」
俺の叫び声に、瓦礫の下から頭から血を流した黒木が這い出してきた。
「坊っちゃま……これはいったい……」
「大地震だ。すぐに火の手がこの屋敷にも回ってくる。ホースを庭の周囲に展開しろ! 水道が死んだなら、俺のエンジンで地下水を引く!」
黒木の顔に、ハッと血の気が戻る。
俺は五歳の身体で背伸びをし、点火スイッチを入れ、燃料コックを開いた。
「黒木さん、回せ!!」
黒木が渾身の力でクランクハンドルを回す。
ガチュン、ドゥルルルルルル……!!
関東の大地が絶望的な悲鳴を上げる中、俺の造った単気筒エンジンは、生命の誕生を告げる力強い産声を上げた。
「ポンプ接続!」
クラッチを繋いだ瞬間、エンジンに猛烈な負荷がかかり、回転数が落ち込む。
だが、俺がスロットルを開け放つと、クロムモリブデンの心臓は爆発的なトルクを発揮し、地下深くから無尽蔵の水を一瞬にして吸い上げた。
ズガァァァァァァン!!
直径一〇センチはある太いホースから、信じられない水圧の放水が開始された。
それは、人力のバケツリレーや手押しポンプとは次元の違う、圧倒的な「機械の暴力」だった。
「す、すごい水圧だ……! これなら、火の粉などすべて叩き落とせる!」
地下水脈から引き上げられる数十トンの水が、迫り来る炎の壁を容赦なく叩き潰していく。
ホースにしがみついた黒木や使用人たちが、歓喜の叫びを上げた。
四方から押し寄せる業火に対し、俺のエンジンは五千回転のレッドゾーンで咆哮し続け、狂ったように水を吐き出し続けた。
オーバーヒートの兆候はない。
オイルラインは完璧に機能し、俺の設計した金属たちは、この地獄のような負荷の中で完璧な調和を保っていた。
その夜。
周囲の街が灰燼に帰し、赤黒く染まった空の下で、九条家の屋敷一帯だけが焼け残っていた。
十時間以上連続して稼働し、地下水脈から水を汲み上げ続けたエンジンは、今も変わらず一定のアイドリング音を刻んでいる。
泥と煤にまみれた父・正和が、その「鉄の心臓」を畏怖の目で見つめていた。
「芳信……。お前が造ったこの小さな機械が、猛火から我々の命を、九条家を救ったのだな」
「ええ。この高出力のエンジンがあったからこそ、地下水脈の水を大量に汲み上げることができました。父様が僕を信じて、工房と機材を与えてくれたおかげです」
父はエンジンの熱気に顔を照らされながら、ゆっくりと首を振った。
「私は正直、お前が自分の足の代わりになる高価な玩具を作っているのだと、心のどこかで思っていた。しかし、これはただの機械ではない。自然の脅威にすら抗う、圧倒的な『力』そのものだ」
「はい。車は、ただ人を運ぶだけの便利な道具じゃないんです。どんな悪路も踏み越え、災害を生き抜き、世界の常識を根底から覆す。僕が造るのは、そういう力なんです」
俺の言葉に、父は深く息を吐き出した。
「……そうか。お前が三歳の時に言っていた、『時代を動かす猛火』とはこれのことだったのだな」
「まだまだ、こんなものでは終わりませんよ。これはただの心臓です。これから、これに最強の骨格と足回りを与えてやりますから」
俺は煤だらけの顔で、エンジンのシリンダーヘッドにそっと触れた。
火傷しそうなほどの熱さが、俺に「生きている」ことを実感させる。
軍隊の馬も、高価な輸入車も、この圧倒的な自然災害の前では無力だった。
だが、俺の造り上げた内燃機関だけが、この業火の中で確かに勝利を収めたのだ。
「待っていろ。俺のエンジンは、こんなものでは終わらない」
焼け焦げた帝都の空に向かって、大正の技術の結晶が、静かに、しかし誇り高く咆哮し続けていた。
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