第60話:狂熱の予選、火花散る五つの魂
昭和二十六年(1951年)初夏。
日本主導による『環太平洋経済インフラ機構』が正式に発足し、東南アジア全域への九条ネットワーク(光通信および物流網)の無償敷設が合意された。
一方、ドル決済網から日本を締め出したアメリカ合衆国では、深刻な物資不足とインフレーションが加速し、西海岸の一部州で大規模な暴動が発生していると報じられた。
しかし、日本の若者たちの関心は、海の向こうの暴動よりも、目の前のアスファルトの温度に向けられていた。
富士裾野に広がる巨大なテストコース、通称『富士インターナショナル・サーキット』。
かつて世界の自動車メーカーを絶望の淵に叩き落としたこの聖地に、日本中から集まった数千台の「改造市販車」が地鳴りのようなエキゾーストノートを轟かせていた。
『第一回 全日本アマチュア・ツーリングカー選手権』の予選である。
ルールは単純明快、規定の周回数を走り切り、最速のタイムを出した上位十六台のみが明日の決勝レースへと駒を進める。
パドックは硝煙とオイルの匂いに包まれ、怒号と歓声が入り乱れるカオスと化していた。
その群狼の中で、ひときわ異彩を放つドライバーたちがいた。
一人目は、下町の小さな鉄工所で働く青年、赤星健だ。
彼の愛車は、九条自動車が数年前に発売した大衆向け小型クーペである。
しかし、外装の鉄板は限界まで薄く削られ、内装はドライバーズシートひとつを残してすべて引っ剥がされた、異常なまでの軽量化が施されていた。
「エンジンパワーで勝てないなら、コーナーで全部抜き去るまでだ」
赤星の瞳には、油まみれのガレージで徹夜を繰り返してきた執念が宿っている。
二人目は、深夜の幹線道路で「絶対に荷物を届ける運び屋」として裏社会で名を馳せた男、氷室涼。
ベース車両は九条の高級大型セダンだが、ボンネットの下にはトラック用の巨大なターボチャージャーが強引に押し込まれていた。
直線での圧倒的な暴力性を、氷室は氷のように冷たい視線と精密なステアリング操作でねじ伏せる。
三人目は、紅一点の橘マキ(たちばな・まき)。
実家であるタクシー会社の営業車をベースにした彼女の車は、見た目こそ地味だが、足回りのセッティングは狂気的なまでに煮詰められていた。
毎日何百キロと帝都を走り込み、ミリ単位で車幅を把握する彼女のライン取りは、まるで定規で引いたように正確無比だった。
そして四人目、没落した旧華族の末裔である神宮寺司。
彼はあえて最新の九条車を選ばず、戦前に輸入された欧州の旧型スポーツカーを現代の日本のパーツで極限までレストアして持ち込んだ。
「九条の技術がすべてではないと、私の誇りにかけて証明してみせよう」
神宮寺の誇り高き走りは、旧世代の意地を見せつけるように優雅にコースを駆け抜けた。
一方、予選会場を最も沸かせたのは、東北の農村からやってきた巨漢、轟大吾だった。
九条の農業用ピックアップトラックに、農機の部品で自作したツインチャージャーを搭載して参戦した彼は、コーナーのたびに車体を大きく傾け、豪快なドリフトを披露した。
「おら、曲がれ! 意地を見せろ!」
観客席は熱狂に包まれたが、物理法則の壁は厚かった。
直線での空気抵抗と車重が足枷となり、轟のタイムは惜しくも十七位。
わずか百分の五秒差で決勝進出を逃した彼は、パドックでトラックのボンネットを叩いて悔しがったが、その「バカげた挑戦」は芳信の記憶に深く刻まれることとなった。
予選は過酷を極めた。
無謀なチューニングでエンジンを焼き付かせる者、コーナーの限界を超えてクラッシュする者が続出する。
最終的に確定した決勝進出メンバー十六名は、まさに死線を越えてきた精鋭たちである。
【決勝レース進出・公式予選結果】
1位:赤星 健(九条・スプリンター改) - 1'58"03
2位:氷室 涼(九条・プレジデント改) - 1'58"06
3位:橘 マキ(タクシー営業車改) - 1'59"12
4位:神宮寺 司(欧州ヴィンテージ改) - 1'59"45
5位:佐藤 誠一郎 - 2'00"10
6位:田中 剛 - 2'00"25
7位:渡辺 健一 - 2'00"48
8位:小林 裕太 - 2'00"88
9位:加藤 慎平 - 2'01"05
10位:伊藤 竜也 - 2'01"33
11位:山本 秀人 - 2'01"59
12位:中村 昭二 - 2'01"82
13位:高橋 義男 - 2'02"04
14位:斎藤 裕二 - 2'02"31
15位:岡田 徹 - 2'02"67
16位:佐々木 潤 - 2'02"95
貴族も、平民も、金持ちも、貧乏人も関係ない。
そこにあるのは「誰が一番速いか」という、純粋で残酷な真理だけだった。
VIPルームの分厚い防弾ガラスの向こう側から、芳信は満足げにその光景を見下ろしていた。
「どうやら、日本は私の想像以上に『バカ』で溢れていたらしい」
芳信の隣で、綾子がグラスのシャンパンを揺らしながら微笑む。
「ええ、最高のバカたちよ。あのトラックの彼も、特別賞をあげたいくらいだわ」
芳信は右手に残る微かなオイルの汚れを見つめ、静かに笑みを深めた。
狂った若者たちの熱狂は、確実に日本の地熱を上げている。
明日の決勝レース、十六台の闘争が、新たなるモータースポーツの歴史を切り拓く最初の爆発となる。




