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オーバー・レブ・ヒストリー 〜車を愛し過ぎた少年の国家魔改造録〜  作者: tky@複数作品を同時連載中
第5章:狂熱のハイウェイと、緑の地獄

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第59話:熱狂の産声と、新たなる地平

昭和二十六年(1951年)春。


極東の島国は、世界の頂点に君臨していた。


「兵器」という野蛮な金属の塊ではなく、「経済」と「技術」という最も洗練された暴力によって。


合衆国大統領フランク・D・ローズウェルが最後に切ったカード――日本を基軸通貨ドルの決済網から追放するという「経済特攻」は、見事なまでに空振りに終わっていた。


ローズウェルは致命的な見落としをしていたのだ。


すでに世界が「ドル」ではなく「九条の技術」に依存して回っているという現実に。


日本の品川から発信される光ファイバー網と衛星による通信インフラ。


どんな泥濘地でも完璧な定時配送を実現する九条のロジスティクス。


そして何より、ローズウェル自身の命すら繋ぎ止めている高度な医療技術。


それらを失うことは、国家機能の死を意味する。


老獪な大英帝国の宰相チャーチルがいち早く日本の技術傘下に入り、欧州のハブとなる道を選んだことで、アメリカの孤立は決定的なものとなった。


ソ連のスターリンは品川や群馬へ死に物狂いでスパイを送り込んでいたが、軍部が構築した光ソナー網と完全無人化された防衛システムの前では、赤子の手首をひねるように無力化されていく。


血を流す戦争は終わり、世界は九条芳信が敷いた「規約ルール」の上でしか呼吸ができない。


だというのに、当の九条芳信は酷く退屈していた。


「……遅い」


品川にそびえ立つ九条自動車工業・本社ビル。


最上階の執務室で、芳信は窓の外を見下ろしていた。


眼下の帝都は、かつての空襲の恐怖など微塵も感じさせない。


片側三車線の広大なアスファルトを、九条が世に送り出した多種多様な車が埋め尽くしている。


家族の笑顔を乗せたミニバン、大量の物資を運ぶフルサイズバン、そして流線型の美しいスポーツセダン。


それは芳信が血を吐くような打算と冷徹な計算の果てに勝ち取った、豊穣の景色だった。


だが、芳信の怜悧な瞳の奥底で燻る「車バカ」としての飢えは、満たされていなかった。


モナコGPでは、グラウンド・エフェクトという概念を物理法則の隙間から引きずり出した『九条F-2』が、欧州のライバルたちを5秒以上も置き去りにした。


天才ドライバー・神谷蒼の空間認識能力をもってすれば、彼らは止まっているも同然だった。


エンツォ・フェラーリは芳信を「神」と呼んで崇めたが、芳信が欲しいのは信仰ではない。


限界の先にある「データ」と「熱」だ。


「完璧すぎるのよ、あなたの造る機械は」


背後から、楽しげな声が響いた。


妻であり、最高の共犯者である綾子だ。


彼女は芳信が描いた図面――群馬の山岳地帯を切り裂いて造り上げる、ニュルブルクリンクを凌駕する『緑の地獄』の青写真を眺めながら、悪戯っぽく笑った。


「蒼くんみたいな化け物か、お義兄様(秀一)が用意した完璧なシステムでもない限り、あなたの車のポテンシャルを100パーセント引き出せる人間はいない。だから退屈なんでしょう?」


「……否定はしない」


芳信は振り返り、微かにオイルの匂いが染み付いた右手を見た。


大正の世に生まれ落ちたあの日から、自分は時代を加速させることだけを考えてきた。


軍部を脅し、政治家を動かし、世界を欺いてまで。


その結果、車は異常な進化を遂げたが、それを操る「人間」の進化が追いついていない。


神谷蒼という突然変異の天才だけでは足りない。


「ならば、創り出すしかない。俺の車をしゃぶり尽くし、限界を引き出し、鉄の悲鳴を子守唄にして笑うような『狂った連中』を」


芳信の口角が、凶悪な弧を描く。


彼は冷徹な為政者でもなければ、平和の使徒でもない。


己の欲望を満たすためなら、国家の予算すら遊び道具に変える本物の「怪物」だ。


数日後。


九条自動車工業からの発表は、平和を謳歌していた日本列島に、文字通りいかずちを落とすことになった。


『第一回 全日本アマチュア・ツーリングカー選手権』の開催。


記者会見場に用意された雛壇の中央。


無数のフラッシュを浴びながら、33歳となった九条芳信は堂々と宣言した。


「参加条件はただ一つ、ベース車両が『市販車』であることです。国内外のメーカーは一切問いません。排気量や改造の程度など、それ以外の制限は設けません」


場内がどよめいた。


それはつまり、日常の足として使われているセダンやクーペを、参加者が自由に改造し、公のサーキットで走らせることを意味する。


「莫大な予算をつぎ込んだワークスマシンは必要ありません。私が求めているのは、街のガレージで油にまみれ、己の腕と知恵だけで這い上がってくるような、純粋で熱狂的な若者たちです」


芳信の言葉は、マイクを通して日本全国のラジオやテレビへと波及していく。


「皆様が公道でどれほど速度を競おうと、それは法と安全を脅かす遊戯に過ぎません。本気で最速を証明したいと望むのなら、私が用意する舞台へいらしてください。給料のすべてをタイヤとガソリンに注ぎ込み、己の技術と車の限界を突き詰める……そんな純粋な情熱を、私は歓迎いたします」


カメラのレンズを見据える芳信の瞳には、一切の妥協はなかった。


あるのは、自分と同じ「熱」を持った同類を求める、強烈な渇望だけだった。


「そして、見事優勝を果たした者には、賞金一億円を授与いたします。さらに副賞として、我が九条自動車の次世代ワークスマシンのテストドライバーとなる権利、あるいは望むだけの特注パーツを生涯提供することをお約束しましょう」


再び、記者会見場が爆発的な歓声とどよめきに包まれた。


「私の造った車が、ただの便利な鉄の箱だと思っているなら、それでも構いません。だが、もしその奥に潜む『本性』に気付いた者がいるのなら……さあ、私を超えてみせてください」


会見の翌日から、日本は未曾有の熱狂に包まれた。


街の修理工場には夜な夜な若者たちが集まり、エンジンのボアアップやサスペンションの調整に狂奔し始めた。


鉄工所の親父たちが若者たちの熱意にほだされ、違法スレスレの軽量化パーツを削り出す。


品川工場の生産ラインを統括する老技術者・黒木伝蔵は「坊ちゃまは、日本中を不良だらけにするおつもりか」とぼやきながらも、どこか嬉しそうに強化クラッチの図面を引いていた。


世界が冷戦という名の静かな恐怖に凍える中、日本だけがガソリンとオイルの匂いにむせ返り、狂ったような歓声を上げていた。


芳信は、群馬の険しい山肌を切り拓く工事現場に立っていた。


隣には綾子が並び、二人で遥か眼下に広がる巨大なうねりを見下ろしている。


高低差300メートル、ブラインドコーナーが連続する、理不尽なまでの超難度コース。


世界のどの自動車メーカーも恐れて近寄らないであろう、新たなる『聖地』の産声が、重機のエンジン音と共に響き渡っている。


「ここから始まるぞ、綾子」


「ええ。世界中が羨むような、最高のバカ騒ぎがね」


九条芳信は、冷徹な計算と極端な利己主義によって世界を平和に導いた。


そして今、彼はその平和というキャンバスの上に、タイヤの黒いブラックマークを容赦なく刻み込もうとしている。


新たな時代のドライバーたちよ、覚醒せよ。


狂熱のモータースポーツ新時代の幕が、エンジンの咆哮と共に今、切って落とされた。

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