第55話:大統領の焦燥と、破滅へのカウントダウン
昭和二十五年(一九五〇年)冬。
ワシントンD.C.、ホワイトハウスの大統領執務室は、重苦しい沈黙と、最高級のハバナ産葉巻から立ち昇る紫煙に満ちていた。
合衆国大統領、フランク・D・ローズウェルは、車椅子に深く沈み込み、マホガニーのデスクに乱雑に放り出された数々の極秘報告書を前に、深い疲労と焦燥に顔を歪ませていた。
史実においてはこの時期、すでに世を去っていたはずの彼を現職に留め置いているのは、ひとえに「九条芳信」という怪物の存在であった。
本来なら病魔に倒れるはずだった彼の肉体は、九条家から「講和の贈り物」として密かに提供された最新の医療機器と未知の薬品によって、無理やり生かされ続けていたのである。
「……生かされているのではない。私は、奴に飼われているのだ」
ローズウェルは、微かに震える手で報告書を握りつぶした。
九条芳信がもたらした「平和」とは、アメリカにとって屈辱以外の何物でもなかった。
対米講和以来、日本は戦火を免れたどころか、九条の技術を背景に世界の産業構造を根本から書き換えてしまった。
「閣下、CIA長官からの報告です。太平洋における我々の暗号通信の九割が、日本の『九条ネットワーク』を経由する際に傍受、あるいは解析されている形跡があります」
「……暗号を変えても無駄だというのか」
「はい。奴らは宇宙に浮かべた『電子の眼』で、我々の艦隊の位置のみならず、補給線の動きや国内の電力消費量までを把握しています。我々は、奴が造り上げた巨大なガラス張りの檻の中で、踊らされているに過ぎません」
かつて「民主主義の兵器廠」と誇ったアメリカの生産能力は、今や見る影もない。
デトロイトの自動車メーカーは、九条からライセンス供給される精密電子制御パーツがなければ、まともな新型車すら発表できないという「技術的去勢」の状態に追い込まれていた。
アメリカの富は、九条製の自動車や通信機器、医療技術の対価として、音を立てて日本へと流れ続けている。
このままでは、アメリカは銃を一発も撃たれることなく、九条芳信という一個人の「所有物」に成り果てる。
「……マンハッタン計画の最終段階を、直ちに実行せよ」
ローズウェルの掠れた声に、居合わせた補佐官たちの背筋に戦慄が走った。
「しかし閣下、あれはまだ実験段階です。それに、日本との講和条約を真っ向から破棄することに……」
「条約だと? 奴は条約という紙切れ一枚で、この偉大な合衆国を窒息死させようとしているのだぞ!」
ローズウェルは、狂気にも似た光を瞳に宿し、机上のボタンを叩いた。
「奴の技術の源泉……品川の開発拠点と、世界を欺くための『聖地』となりつつある群馬の新コース。そして帝都・東京。それらすべてを、太陽の火柱で焼き尽くす」
「核」という禁断の果実。
それは、九条芳信という神にも等しい技術の怪物に対抗するため、人間が最後に縋った悪魔の選択であった。
「芳信……。君が私に与えたこの『永すぎる命』を、君自身の破滅のために使わせてもらおう」
かつての理知的な大統領の面影はそこにはなかった。
情報の網で縛られ、経済の刃で切り刻まれた超大国の指導者は、ただ一矢報いるためだけに、世界を灰燼に帰すカウントダウンを開始したのである。




