第53話 女帝の箱庭と、怪物の休息
昭和二十四年(一九四九年)初冬。
群馬県利根郡に広がる山岳地帯には、早くも肌を刺すような冷たい風が吹き下ろしていた。
切り立った崖と鬱蒼とした原生林に囲まれたこの地で、世界最大のテストコース建設という国家規模のプロジェクトが、急ピッチで進められている。
「第三工区の切土、ストップ! そこは人工衛星の地形データと五センチのズレがあるわ。自然の起伏をそのまま活かすのが絶対条件よ。すぐに修正しなさい」
現場に響き渡る凛とした声の主は、作業着にヘルメットという出で立ちでありながら、隠しきれない気品を漂わせる女性、九条綾子であった。
西條財閥の本流令嬢であり、九条芳信の妻となった彼女は、この『九条・群馬マウンテン・コース』建設の最高責任者として、自ら山に入り陣頭指揮を執っていたのだ。
泥にまみれ、図面と格闘する彼女の姿に、最初は侮っていたベテランの作業員たちも、今では完全な敬意を持って従っている。
「素晴らしい進捗ね。この分なら、雪が本格的に積もる前に基礎工事の大部分を終えられそうよ」
綾子は、九条製の巨大なブルドーザーが唸りを上げて岩を砕く様を見つめながら、満足げに微笑んだ。
彼女がこれほどまでにこのプロジェクトに情熱を傾けるのには、理由があった。
それは、夫である九条芳信への、底知れぬ畏敬の念である。
芳信は、人工衛星を打ち上げ、光通信網を巡らせ、軍事の完全無人化という神のような所業を平然と成し遂げている。
国家の命運すら盤上の駒のように動かす彼が、唯一「自分の楽しみ」として全知全能を注ぎ込んでいるのが、モータースポーツだった。
だからこそ、綾子はその遊び場を、誰よりも完璧に創り上げたかった。
「彼が求める究極の地獄を、私が形にするのよ」
崖に沿ってうねるように続くコースの輪郭を見下ろしながら、綾子は胸の高鳴りを覚えていた。
***
週末、綾子は建設現場を離れ、帝都・東京へと戻った。
華やかに復興を遂げた銀座の街並みは、ネオンの光に彩られ、道ゆく人々は平和な時代の空気を満喫している。
「現場の空気はどうだい、綾子。無理をしていないか?」
市販モデルの『紫電』の助手席で、綾子は心地よいエキゾーストノートに包まれていた。
ステアリングを握っているのは、もちろん芳信である。
サーキットで一万二千回転の狂気を放つエンジンも、彼の手にかかれば、公道では信じられないほど静かで滑らかに回っている。
「ええ、順調そのものよ。あなたの望む『地獄』は、着実に形になりつつあるわ」
「それは楽しみだ。だが、君にばかり苦労をかけてしまって申し訳ないね」
芳信がふと見せた、夫としての優しさに溢れた眼差し。
世界を恐怖で支配する「技術の怪物」が、自分にだけ見せるこの穏やかな顔に、綾子は心底惹かれていた。
「いいえ、私こそ楽しませてもらっているわ。こんなにもワクワクする箱庭造り、他では絶対に味わえないもの」
車は銀座の高級レストランの前に滑り込むように停まった。
ドアマンが恭しく扉を開け、芳信が綾子の手を引いてエスコートする。
最上階の個室からは、光の海と化した帝都の夜景が一望できた。
最高級のワイングラスを傾けながら、二人の話題は自然と車と技術のことに行き着く。
「来年から、本格的に海外のレースに参戦するのよね。F‐1の開発は順調?」
「ああ。神谷のフィードバックのおかげで、サスペンションのセッティングが劇的に良くなった。欧州の古いサーキットでも、我々の技術が頂点であることを証明してくるよ」
芳信の瞳には、次なる闘争への純粋な歓喜が燃えている。
「そして三年後、君が造ってくれた群馬のコースに、世界中の猛者たちを招き入れる。あそこをF‐1が全開で駆け抜ける音を想像するだけで、胸が躍るよ」
芳信が見ている途方もなく遠く、そして美しい景色。
綾子は、その景色に寄り添える己の幸福を噛み締めた。
「ええ、私もよ。その日を楽しみにしているわ、芳信さん」
夜景を見下ろしながら、怪物は愛する妻の隣で束の間の休息を楽しみ、女帝は夫のために世界最高の舞台を創り上げる決意を新たにしていた。
二人の絆は、来たるべき新たな戦いの季節に向けて、より一層強固なものとなっていたのである。




