第52話 鋼の胎動と、遙かなる緑の地獄
昭和二十四年(一九四九年)秋。
帝都で行われた世紀の成婚式から数日後、九条芳信は自ら招いた世界各国の報道陣と自動車メーカーの重役たちを、富士裾野の『富士インターナショナル・サーキット』へと招待していた。
一点の曇りもない秋晴れの下、雄大な富士を背に、真新しいピットガレージの前に置かれた「それ」は、集まった人々の度肝を抜くには十分すぎる異形を晒していた。
「……あれが、車だというのか?」
誰かが掠れた声で呟いた。
そこに置かれていたのは、前年の富士グランプリで世界を震撼させた『紫電』のような、美しい流線型のカウルを纏ったスポーツカーではなかった。
葉巻のように細長く、極限まで絞り込まれた銀色のチタン合金製ボディ。
その両脇からは、サスペンションアームによって保持された巨大な四つの車輪が、剥き出しのまま突き出している。
空気抵抗を減らすためのフェンダーすら排除したその姿は、まるで大空を飛ぶ戦闘機から主翼を捥ぎ取り、地面を這わせるために車輪を付けたかのような、殺気すら漂う機能美の塊だった。
「紳士淑女の皆様、本日はお集まりいただき感謝いたします」
タキシードを脱ぎ捨て、再び油の匂いが染み付いた作業着に身を包んだ芳信が、マイクを握った。
「これが、九条自動車が提示する新たなる『闘争の定義』……純血の競技車両、『九条F‐1』プロトタイプです」
芳信は、静まり返る群衆を前に、その「中身」を誇らしげに語り始めた。
航空宇宙部門で培われた超軽量チタン合金によるモノコック構造。
限界まで低められた重心と、タイヤの接地荷重をミリ単位で制御する完全独立懸架式のダブルウィッシュボーン・サスペンション。
そして、その心臓部に鎮座するのは、欧米メーカーが突きつけた「三リッター制限」という枷を逆手に取り、一万二千回転という狂気的な高回転域で最高出力を絞り出す、新開発の九十度V型十二気筒エンジンであった。
「この車に、もはや『市販車』としての妥協は一切存在しません。ただ速く、誰よりも先にゴールを駆け抜けること……それのみを存在理由とする、機械の純血種です」
説明が終わると同時に、コクピットに一人の男が滑り込んだ。
元海軍航空隊の天才、神谷蒼である。
彼がスイッチを入れた瞬間、V十二気筒エンジンが目覚め、裾野の空気を切り裂くような高周波の咆哮が響き渡った。
「――ッ!?」
最前列にいたイタリアの技術者たちが、思わず耳を塞いだ。
それは車の排気音というより、巨大な金属の笛を吹き鳴らしたかのような、聞いたこともない「和音」だった。
神谷の手によってギアが叩き込まれると、シルバーの車体は矢となって放たれた。
剥き出しのタイヤが路面を噛み、白煙を上げることすらなく、時速二百キロを超える領域まで一瞬で加速していく。
富士の長い直線から第一コーナーへ。
これまでのスポーツカーならブレーキを踏まなければ曲がれない速度のまま、F‐1は吸い付くような挙動でコーナーを抜けていく。
タイヤが剥き出しであるがゆえに、ドライバーからはタイヤの状態が完全に視認でき、神谷はまるで自分の手足のようにその接地面を操っていた。
「……信じられん。あの速度で旋回しているのに、車体が全く浮き上がらない」
フォードの役員が、手にした双眼鏡を震わせながら呻いた。
「これが、奴の言っていた『フォーミュラ(規定)』の力か」
デモ走行を終え、陽炎を揺らしながらピットに戻ってきた『九条F‐1』の前に、芳信が再び立つ。
彼は、戦慄するライバルメーカーたちの顔を見渡し、不敵な笑みを浮かべて本題を切り出した。
「私は、この『F‐1』による世界最高峰のリーグを創設したいと考えています。国境を超え、メーカーの威信を賭け、純粋な技術のみで競い合う舞台です。来年から、欧州と米国、そしてこの日本を転戦する世界選手権を始めましょう」
エンツォ・フェラーリが、その言葉を遮るように一歩前に出た。
「芳信、貴公の車が速いのは認めよう。だが、ここはあまりに平坦で、広すぎる。このような場所での勝負が、真の技術の証明になるとでも?」
「ええ、承知していますよ、エンツォ。だからこそ、私は『究極の解答』を用意しました」
芳信は、巨大な地図を広げさせた。
そこには、日本の屋根とも呼ばれる群馬県……赤城、榛名、妙義の三山に囲まれた、険峻な山岳地帯が赤く縁取られていた。
「現在、我々は群馬県北部の広大な原野において、新たなるテストコースの建設を開始しています。本年、昭和二十四年の春に着工したばかりの、巨大な挑戦です」
芳信が指し示したそのコース図は、並み居る専門家たちの言葉を奪った。
全長、約二十五キロメートル。
高低差は三百メートルを超え、コーナーの数は百七十以上に及ぶ。
深い森を抜け、崖淵を這い、果てしないアップダウンを繰り返すそのレイアウトは、ドイツの『ニュルブルクリンク北コース』に匹敵、あるいはそれを凌駕する「地獄」そのものだった。
「場所は群馬県利根郡。九条の航空部門が人工衛星から得た詳細な地形データを基に、自然の起伏を一切殺さずに舗装します。このコースを一周し、無事に帰還できた車こそが、世界一の称号を得るに相応しい」
「着工したばかりというが……完成はいつになる?」
記者の問いに、芳信は遠く北の空を見つめて答えた。
「三年の歳月をかけます。完成は昭和二十七年(一九五二年)の春を予定しています。この『九条・群馬マウンテン・コース』が竣工するその日、そこで最高のレースを開催しましょう」
芳信は言葉を切り、各国の首脳陣を挑発するように見回した。
「もちろん、それまで大人しく待っているつもりはありません。来年以降、世界中で開催されるあらゆる公式レースに、我々はこの『F‐1』と『紫電』で参戦します。あらゆる場所で、我々の技術を証明し続けるつもりです」
三年後の巨大サーキット完成という最終目標と、直近のすべてのレースへの参戦表明。
それは、世界各国のメーカーに対する「いつでも、どこでも、全力で叩き潰してやる」という、芳信からの宣戦布告であった。
「……三年か」
エンツォ・フェラーリが、真っ赤なイタリアンレッドのネクタイを締め直し、獰猛な狼のように笑った。
「よかろう、九条芳信。ヨーロッパのサーキットで、そして三年後に開くその地獄の門で、我々の『跳ね馬』が貴公の銀色の矢を蹴散らしてやろう」
芳信とエンツォが、無言のまま固い握手を交わした。
鋼の胎動。
それは、自動車産業という枠を超えた、人類の技術の限界に挑む「三か年計画」の幕開けであった。
富士の裾野に響く一万二千回転の残響は、遠く群馬の深い山々へとこだまし、新たなる時代の到来を告げていたのである。




