第50話 青き旋風の頂点と、世界を呑む生産線
昭和二十三年(一九四八年)九月。
十万人を超える大観衆が詰めかけた富士インターナショナル・グランプリの決勝レースは、下馬評をあざ笑うかのような、残酷なまでの一方的な蹂躙劇となった。
日章旗が振り下ろされ、轟音と共に数十台のレーシングカーが一斉に第一コーナーへと飛び込んでいく。
大排気量のトルクに物を言わせて前に出ようとするアメリカのフォードやGM、そしてイタリアの至宝である真紅のフェラーリ。
彼らは予選で味わった屈辱を晴らすべく、スタート直後からエンジンが焼き切れる覚悟で限界までアクセルを踏み込んでいた。
だが、予選をトップで通過したミッドナイトブルーの『紫電』は、彼らの必死の形相を冷笑するかのように、あっという間に後続を引き離していった。
一万二千回転という未知の領域で吼えるV型十二気筒エンジンは、ストレートでアメリカ勢の巨体を置き去りにする。
そしてコーナーが近づけば、元海軍の天才パイロット・神谷蒼が操るその機体は、まるで物理法則を無視したかのような異常な旋回速度でインを突き、後続とのタイム差を絶望的なまでに広げていった。
「……信じられん。あの車は、タイヤの摩擦係数すら計算し尽くしているというのか」
ピットウォールから双眼鏡を覗き込んでいたエンツォ・フェラーリは、呻くように声を漏らした。
レースが中盤に差し掛かる頃には、勝敗の行方を疑う者はサーキットのどこにもいなくなっていた。
『紫電』は、二位のフェラーリにすら周回遅れの屈辱を与え、ただひたすらに自分自身との孤独な戦い(タイムアタック)を続けていた。
エンジンからは微かな白煙すら上がらず、神谷のドライビングにも一切の乱れがない。
それは、九条自動車の技術力がいかに次元の違う完成度を誇っているかを、世界中から集まったメディアの眼前で見せつける、完璧なデモンストレーションであった。
そして、三時間の過酷なレースの末、西日が傾き始めたメインストレートに、トップで帰還した『紫電』に向けて栄光のチェッカーフラッグが振られた。
地鳴りのような大歓声が富士の裾野を揺るがす中、VIPルームからその光景を見下ろしていた九条芳信は、シャンパングラスを静かに傾けた。
「勝負になりませんでしたね。彼らには、もう少し骨のある走りを見せてもらえると期待していたのですが」
「芳信、お前という奴は……。周回遅れにされた欧米の連中が、今どんな顔をしているか想像もつかないのか」
隣に立つ兄の秀一が、呆れたように苦笑する。
「いいえ、彼らの顔なら手にとるように分かりますよ。怒りと、絶望と……そして、我々の技術への抗いがたい『渇望』で満たされているはずです」
芳信の予言は、翌日になって恐ろしいほどの正確さで的中することとなる。
品川の九条自動車工業・本社ビルは、朝から世界中からの電話と電報でパニック状態に陥っていた。
欧米の自動車メーカーの首脳陣たちは、レースでの惨敗を目の当たりにし、プライドをかなぐり捨てて九条へのコンタクトを試みてきたのだ。
「総帥、先ほどフォードの極東担当役員から連絡がありました! 次回のレースに向けて、レギュレーションの再見直しを要求してきています。加えて……自社のスポーツカーに、九条製の特殊ベアリングと電装部品を供給してほしいと、暗に打診してきました」
執務室に駆け込んできた重役の報告に、芳信は満足そうに頷いた。
「メルセデスや他のメーカーからも、同じような問い合わせが殺到しています。レースで勝てないなら、せめて九条の部品を使って自車の性能を引き上げるしかないと、彼らは気づいたようです」
「よし。部品供給の打診は、すべて前向きに検討しろ。ただし、価格はこちらの言い値だ。彼らが我々の部品なしでは車を造れない体質になれば、経済戦争は完全にこちらの勝ちだ」
芳信は、世界中の自動車産業を「九条のネットワーク」という巨大な蜘蛛の巣に絡め取るという、恐るべき青写真を現実のものとしつつあった。
「芳信さん、群馬の件も順調よ」
執務室のソファに腰掛けていた婚約者の西條綾子が、分厚いファイルから顔を上げた。
「西條財閥の力で、予定していた山岳地帯の土地買収はほぼ完了したわ。地元の自治体も、世界的なテストコースが建設されると聞いて全面協力の姿勢を見せている。この分なら、半年後には着工できそうね」
「素晴らしい。富士のサーキットは『速度』の限界を見せる場所だったが、群馬のコースは『耐久』の限界を試す地獄になる。そこで鍛え上げられた車こそが、真に世界を支配する大衆車になるんだ」
芳信の目は、すでにレースの勝利という過去の栄光から離れ、遥か先の未来へと向けられていた。
その未来を確固たるものにするための最大の武器が、レースの余韻も冷めやらぬうちに発表された、『紫電』の市販車モデルであった。
流線型の美しいボディラインはそのままに、エンジンを公道用にデチューンし、最高級のレザーインテリアを設えたそのスポーツカーは、発表と同時に世界中の富裕層から注文が殺到した。
「総帥、大変です。市販型『紫電』のバックオーダーが、すでに五千台を超えました。世間のメディアは、納車まで三年、いや五年は待つことになると書き立てています」
黒木伝蔵が、分厚い注文書の束を抱えて執務室に入ってきた。
彼の手は、悲鳴を上げる現場の状況を物語るように微かに震えている。
だが、芳信の表情には一切の焦りがなかった。
「三年待ち? 五年待ち? 馬鹿なことを言うな。お客様の熱が冷める前に車を届けるのが、メーカーの義務だろう」
芳信は立ち上がり、巨大な日本地図が掛けられた壁面へと歩み寄った。
「伝蔵、お前は僕がこの日を予測していなかったとでも思っているのか? 川崎のメインプラントの隣に建設していた新工場、あれのラインはすでにテスト稼働を終えているはずだ」
伝蔵がハッと息を呑む。
「まさか……あの巨大な工場は、すべて『紫電』の量産のためだったと?」
「その通りだ。職人の手組みに頼るような古い生産方式は、レース用の特別モデルだけで十分だ。市販車は、徹底的に規格化された治具とベルトコンベアによる大量生産で捌き切る。航空機製造で培った工程管理のノウハウを、すべて市販車のラインに叩き込め」
芳信は、かつて大正時代の品川工場で大人たちを戦慄させた、「見込み生産」の狂気を再び世界に見せつけようとしていた。
「五千台のバックオーダーなど、新工場をフル稼働させれば一年以内で納車できる。世界中の富豪たちが三年待つと諦めかけているところに、一年で最高のスポーツカーを届けてやるんだ。九条の生産能力の恐ろしさを、骨の髄まで思い知らせてやれ」
「……恐ろしいお人だ。分かりやした。現場の意地にかけて、一年以内にすべての注文を捌いてみせましょうぜ」
伝蔵は不敵な笑みを浮かべ、注文書の束を脇に抱え直して執務室を後にした。
「レースで速さを証明し、部品供給で首根っこを掴み、そして圧倒的な生産力で市場を制圧する。……本当に、お前は血を流さない戦争の天才だな、芳信」
秀一が、半ば呆れたように、しかし確かな誇りを持って弟を見つめた。
「戦争ではありませんよ、兄さん。これはビジネスだ。最高にエキサイティングで、誰の血も流れない、平和なゲームです」
芳信は執務室の窓から、夕日に染まる帝都の空を見上げた。
かつてB‐29の影に怯えるはずだった空には、今、九条の造り上げた富と技術の象徴である、飛行船の巨大な広告塔が悠然と浮かんでいる。
日本の自動車産業が、名実ともに世界の頂点に君臨する第一歩が、確かな地鳴りとなって響き始めていた。




