第48話 緑の地獄と、真紅の猛獣
昭和二十三年(一九四八年)九月。
秋の澄み切った青空に、富士山がくっきりとその稜線を描き出していた。
しかし、その静謐な自然の風景とは裏腹に、富士の裾野に新設された全長六キロメートルの巨大サーキットは、人類が産み出した極限の金属音と、焦げたオイルの匂い、そして数万人の観客の熱狂に包まれていた。
『第一回 富士インターナショナル・グランプリ』の公式予選レース。
三リッター以下、自然吸気(NA)という厳しいレギュレーションの檻に閉じ込められながらも、世界各国の自動車メーカーは、その制限の中で持てる技術のすべてを絞り出し、究極のレーシングマシンを仕立て上げてきた。
メインストレートを、地鳴りのようなV型八気筒の重低音を響かせて駆け抜けていくのは、アメリカのフォードとGMの連合チームだった。
彼らは排気量制限という不利を補うため、エンジンの低速トルクを極限まで太くし、ストレートでの圧倒的な加速力でタイムを削り取るという、力技のセッティングを持ち込んでいた。
「力こそ正義」と言わんばかりのアメリカン・マシンの豪快な走りに、観客席からは大きなどよめきが上がる。
しかし、コーナーの連続するテクニカルセクションに入ると、彼らの重い車体はタイヤのスキール音を悲鳴のように響かせ、苦戦を強いられていた。
その隙を突くように、精密な時計細工のような直列八気筒エンジンを積んだ銀色の弾丸が、アメリカ勢のイン側を鋭く突き刺していく。
ドイツからやって来た伝統の巨人、メルセデス・ベンツである。
彼らのマシンは、戦前のグランプリで培った恐ろしいほどの空力性能と、寸分の狂いもないコーナーリング性能を誇り、次々とコースレコードを塗り替えていた。
だが、そのメルセデスでさえも震え上がるほどの強烈な存在感を放っていたのは、イタリアからやって来た一台の真紅のマシンだった。
小規模な新興メーカーでありながら、レース界のドンであるエンツォ・フェラーリが自ら乗り込んできたそのチームは、三リッターのV型十二気筒エンジンという、九条の『紫電』と同じレイアウトの心臓部を搭載していた。
真紅のフェラーリが甲高いエキゾーストノートを響かせてストレートを駆け抜けるたび、まるで猛獣が咆哮しているかのような錯覚を人々に与える。
それは、論理や効率を超えた、人間の情熱そのものが形になったような恐ろしい速さだった。
各国のメーカーが血で血を洗うようなタイム更新合戦を繰り広げ、富士のサーキットは文字通り「世界の中心」として沸き立っていた。
***
コース上の喧騒から完全に隔離された、防音ガラス張りのVIPルーム。
九条芳信は、眼下で繰り広げられる世界最高峰の予選レースを一瞥することもなく、巨大なテーブルの上に広げられた日本地図に釘付けになっていた。
「どうだ、綾子。富士のコースは確かに世界有数の超高速サーキットになったが、僕から言わせれば、まだ『平坦すぎる』んだ」
芳信が万年筆で地図の等高線を指し示すと、向かいに座る婚約者・西條綾子が、悪戯っぽい笑みを浮かべて覗き込んだ。
彼女は最高級のドレスを身に纏いながらも、その瞳には芳信と同じ、技術と野心に対する狂熱が宿っている。
「ええ、同感だわ、芳信さん。あの平らなコースでは、エンジンのパワーと空気抵抗の少なさばかりが強調されてしまう。真に強靭なシャシーと、どんな悪路でも路面を掴んで離さないサスペンションを鍛え上げるには、もっと車を徹底的に『苛め抜く』環境が必要ね」
綾子の答えに、芳信は満足そうに頷いた。
「ドイツのアイフェル地方に、ニュルブルクリンクというサーキットがある。特にその北コースは、全長二十キロメートル以上、標高差は三百メートルを超え、大小のコーナーが百七十以上も連続する。深い森の中を駆け抜けるその過酷さから、彼らはそこを『緑の地獄』と呼んでいるんだ」
芳信は万年筆を置き、綾子の目を見つめた。
「僕たちが次に造るのは、あのニュルブルクリンクに匹敵し、いや、凌駕する規模の巨大なテストコース兼サーキットだ。ブラインドコーナーの先で突然路面がうねり、ジャンピングスポットで四輪が宙に浮く。車体に致命的な負荷を与え、ドライバーの精神をすり減らす、究極の鍛錬場。……場所は、群馬の山岳地帯を考えている」
普通の令嬢であれば、その狂気じみた構想に顔を引きつらせるところだろう。
だが綾子は、まるで新しい宝石でも見せられたかのように目を輝かせた。
「素晴らしいわ。なら、群馬周辺にある西條財閥の山林をいくつか見繕いましょう。隆明兄様に言って、あの辺りの山を二、三個、丸ごと買収してあげる。どうせなら、高低差は五百メートルぐらいにして、濃霧が発生しやすい盆地の地形を組み込みましょうよ」
「それはいい。霧の中で度胸を試される高速コーナーか。サスペンションのテストには最高の環境だ」
二人は、まるで休日のピクニックの計画を立てるように、国家規模の土木工事と、自動車を極限まで破壊するような過酷なコースレイアウトについて楽しげに語り合った。
この女を婚約者に選んだ西條隆明の慧眼に、芳信は改めて感謝した。
綾子は芳信の怪物性を恐れるどころか、自らもその怪物に乗って世界を駆け抜けようとする、類稀なるパートナーであった。
「……総帥。お楽しみのところ申し訳ありません」
部屋の扉が開き、油と汗に塗れた黒木伝蔵が顔を出した。
その表情には、現場の職人だけが持つ、殺気にも似た極度の緊張感が漂っている。
「いよいよ、うちの出番です。予選の最終組、コースクリアになりました」
芳信は地図から顔を上げ、腕時計を見た。
時刻は夕刻。太陽が富士の稜線に沈みかけ、サーキットは長い影に覆われ始めている。
予選日程の最後尾。
これまで各国のメーカーが削り取ってきた数多のタイムレコードが、スコアボードの最上段に君臨している。
フェラーリ、メルセデス、フォード。彼らが持てる技術のすべてを出し尽くし、世界最高峰の壁を築き上げたのだ。
あとは、ホスト国である九条自動車が、その壁に挑むだけだった。
「行きましょうか。お客さまたちのウォーミングアップも、十分に済んだ頃でしょう」
芳信が立ち上がると、綾子も優雅な所作で立ち上がり、彼の腕にそっと手を添えた。
「世界を驚かせてきてね、芳信さん」
「ええ。我慢の限界までチューニングした、とびきりの怪物を解き放ってきますよ」
ピットレーンに降り立った芳信を迎えたのは、張り詰めた沈黙だった。
他メーカーのエンジニアたちも、観客席の人々も、みな固唾を呑んで一箇所を見つめている。
九条のピットガレージ。
その暗がりから、ミッドナイトブルーに塗装された、徹底的に無駄を削ぎ落とした流線型の車体が、ゆっくりと姿を現した。
三リッターに制限された排気量。過給機の禁止。
欧米メーカーが自らの有利を図るために押し付けたそのレギュレーションの檻を、限界まで高回転化することで力ずくで破り捨てた、V型十二気筒の純血レーシングマシン。
九条型スポーツクーペ『紫電』。
キーが捻られ、セルモーターが回った次の瞬間。
パーンッ、という乾いた破裂音と共に、フェラーリのそれよりもさらに甲高く、さらに狂気じみた、絹を引き裂くようなエキゾーストノートがサーキットに響き渡った。
それは、一万二千回転という未知の領域を回るエンジンだけが発することのできる、勝利への咆哮だった。
芳信は、静かにコースへと滑り出ていく『紫電』の背中を見送りながら、獰猛な笑みを浮かべた。
いよいよ、九条芳信の「解答」が、世界の眼前に突きつけられようとしていた。




