第47話 規約の檻と、吼える十二気筒
昭和二十三年(一九四八年)初夏。
富士の裾野、新設されたばかりのサーキット・ピットビルの一室には、世界中の「速度」を支配する男たちが集結し、張り詰めた沈黙が流れていた。
「九条氏、我々はあなたの提案する『オートレース』の理念には賛同する。だが、この車両規定は到底受け入れられない」
口火を切ったのは、アメリカから来たGMの代表者だった。彼の背後にはフォード、そして欧州の古豪であるメルセデス・ベンツの役員たちが、冷徹な視線を芳信に注いでいる。
「市販車をベースにしたスポーツカーレースだと聞き及んでいたが、あなたの造った『紫電』のスペックは、もはや航空機のそれだ。五リッターのV12エンジンなど、我々の大衆向けスポーツカーとは土俵が違いすぎる」
芳信は椅子に深く腰掛け、手元の資料を眺めながら薄く笑った。
「土俵を同じにするためのルール作りだと思っていましたが。では、具体的にどのような注文があるのですか?」
待ってましたと言わんばかりに、イタリアの代表者が立ち上がる。
「まず、排気量を三リッター以下に制限すること。そして、過給機の使用禁止。さらに、航空機由来の超軽量アルミ合金の使用も制限すべきだ。これらが守られない限り、我々はボイコットも辞さない」
彼らの言い分は明白だった。戦後、壊滅的な打撃を受けた欧州メーカーや、大量生産の市販車に重きを置く米国メーカーにとって、九条の軍事技術が注ぎ込まれた『紫電』はあまりにも脅威すぎたのだ。
彼らは、ルールの力で九条の翼をもぎ、自分たちが勝てる領域まで引きずり下ろそうとしていた。
「……なるほど。排気量の縮小、過給機の廃止、素材の制限。つまり、皆さんは『九条に勝たせてくれ』と言っているわけですね」
芳信の挑発的な言葉に、室内が殺気立つ。だが、芳信は平然と続けた。
「いいでしょう。その条件、すべて飲みましょう。ただし、一つだけ条件がある」
芳信は身を乗り出し、机の上に一つの図面を広げた。そこには、タイヤが剥き出しになった、市販車の面影を一切持たない異形の純競技車両のスケッチがあった。
「今回の『オートレース』は、あくまで市販車の延長線上にあるスポーツカーで行う。だが、将来的にはこの図面のような、純粋に速さだけを競う最高峰のカテゴリーを創設する。それを……そうですね、『フォーミュラ(規定)』の頭文字を取って、最高峰を『F1』、その下を『F2』と呼びましょう。この構想に同意するなら、今回のレギュレーション変更に応じます」
欧米の代表者たちは顔を見合わせた。彼らにとって、数年先の未来よりも、今この瞬間に九条に恥をかかされることを防ぐ方が優先だった。
「……よかろう。将来の『フォーミュラ』構想については継続審議とするが、今回のレースについては貴殿の譲歩を受け入れよう」
握手が交わされ、交渉は妥結した。
だが、彼らは気づいていなかった。芳信が、彼らの「注文」さえも、自らの技術を研磨するための砥石として利用するつもりであることを。
***
「……本気ですか、坊ちゃま。三リッターNA(自然吸気)で、あの重量制限……。これじゃあ、『紫電』の心臓を抜き取るようなもんですぜ」
九条自動車・秘密開発ピット。黒木伝蔵が、分解されたV12エンジンを前に、苦虫を噛み潰したような顔で芳信に詰め寄っていた。
「伝蔵。不満か?」
「当たり前です! 航空機用の過給機を外して、排気量を半分近く削るなんて、技術者への冒涜だ」
「逆だよ、伝蔵」
芳信は、新しく設計し直されたピストンの図面を指でなぞった。
「排気量が小さくなるなら、その分、回せばいい。大排気量に頼らず、超高回転で出力を稼ぐ。これは、将来の『F1』で勝つために避けては通れない道だ。欧米の連中は、自分たちの首を絞めるルールを、自ら提案してくれたんだよ」
芳信の瞳に、狂おしいほどの技術的野心が宿った。
「目標回転数は、一万二千回転。市販車の常識を三倍上回る高回転型エンジンを造るぞ。バルブの開閉タイミング、混合気の流速、排気干渉……。すべてを極限まで計算し直せ。制限された檻の中で、世界最高の咆哮を上げさせるんだ」
それからの数週間、開発ピットは不眠不休の戦場となった。
過給機に頼れない分、エンジンの呼吸(吸排気)を極限までスムーズにするため、ポートの一本一本が鏡のように磨き上げられた。
制限されたアルミ合金の代わりに、芳信は熱処理を工夫した新世代の鋼材をクランクシャフトに採用し、超高回転時の振動を力じずくで抑え込んだ。
そして迎えた、最終走行テスト。
富士のストレートに、これまでのどんなエンジンとも違う、絹を引き裂くような、高く澄んだ、それでいて暴力的なサウンドが響き渡った。
「……一万二千、回ったな」
ストップウォッチを手にした芳信が、静かに呟いた。
レギュレーションという鎖で繋がれたはずの『紫電』は、その鎖を栄養にして、より鋭く、より洗練された「殺戮の芸術品」へと進化を遂げていた。
「これなら勝てる」
伝蔵が、油に汚れた手で顔を拭いながら笑った。
「九条を縛ろうとした連中は、当日、自分たちが何を解き放ってしまったのかを知ることになるでしょうぜ」
サーキットを包む夕闇の中、新開発の三リッターV12エンジンが、まるで勝利を予見するように、静かな、しかし確かな鼓動を刻んでいた。




