第43話 熱狂のサーキットと、白煙の宣戦布告
昭和二十年(一九四五年)春。
東富士の広大な演習場に、これまで誰も聞いたことのない、空気を叩き割るような甲高いローター音が響き渡っていた。
初夏の青空を背景に、無骨な鋼鉄の骨組みを剥き出しにした異形の航空機が、滑走路を滑ることもなく、その場から垂直に浮き上がっていく。
地上五〇メートルの空中でピタリと静止したその機体を見上げ、陸軍少将・進藤拓也は双眼鏡を下ろした。
「……信じられん。本当に空中で止まってやがる」
「あれが、九条の言っていた回転翼機のプロトタイプ、『蜻蛉』か」
隣で同じように空を見上げていた海軍少将・神崎烈が、感嘆の吐息を漏らした。
日米の講和から約一年が経過し、帝国陸海軍の規模は条約によって大幅に縮小された。
しかし、芳信が約束した通り、軍の「質」はかつてないほどの劇的な進化を遂げつつあった。
滑走路を持たない狭小な陣地や艦船からでも離着陸が可能な回転翼機は、部隊の電撃的な展開や傷病兵の迅速な後送を可能にし、これまでの戦術の常識を根本から覆そうとしている。
その時、甲高いサイレンが演習場に鳴り響いた。
上空の雲を切り裂き、標的となる旧式の無人航空機が高速で飛来する。
次の瞬間、地上に設置された発射台から、轟音と共に筒状の飛翔体が打ち出された。
それはロケットモーターの白煙を曳きながら空へ駆け上がり、なんと自ら軌道を修正して、逃げ惑う無人標的機に正確に食らいついた。
鼓膜を震わせる爆発音と共に、標的機がオレンジ色の火球となって四散する。
「地対空誘導弾……赤外線追尾式だと聞いているが、あれほど正確に目標を捉えるとはな」
神崎の言葉に、進藤は深く頷いた。
「ああ。これなら、味方のパイロットを危険な空へ上げずとも、本土に近づく敵機を確実に叩き落とせる。九条の怪物は、本気で『血を流さない国防』を完成させようとしているんだ」
兵士の命を消費する泥臭い総力戦の時代は終わりを告げ、冷徹な機械と電子頭脳が国防を担う、新たな時代の扉が確実に開いていた。
同時刻、品川の九条自動車工業・特別開発室。
厳重なセキュリティで守られたその部屋の中央には、すっぽりと白い布を被せられた巨大な物体が鎮座していた。
「さて、兄さん、隆明。今日二人に来てもらったのは、我が九条自動車の次なる『世界戦略』を見てもらうためです」
芳信は悪戯っ子のような笑みを浮かべると、白い布の端を掴み、一気に引き剥がした。
現れたのは、息を呑むほどに美しい流線型を描く、自動車のクレイモデル(粘土模型)だった。
地を這うように低い車高、空気抵抗を極限まで計算し尽くした滑らかなノーズ、そして後輪の力強さを強調するような張り出したフェンダー。
それは、街中を走る大衆車とも、重厚な高級セダンとも全く異なる、純粋な「速さ」だけを目的として削り出されたような暴力的なまでの美しさを放っていた。
「……なんだ、これは。まるで弾丸じゃないか」
兄の秀一が、目を丸くして模型に歩み寄った。
「九条型スポーツクーペ、コードネーム『紫電』。航空機部門で培った空力設計と、新開発の軽量アルミ合金フレームを採用しています。心臓部には、戦闘機用の技術をフィードバックした超高回転型V型十二気筒エンジンを搭載。目標最高時速は、三百キロメートルです」
芳信の言葉に、西條財閥総帥である隆明が呆れたようにため息をついた。
「芳信、平和になった途端にそんなお化けを造ってどうするつもりだ? そんな速度、日本のどこを走らせる気だ。今は国内外の復興需要に向けたトラックと、大衆車の量産が最優先だろう?」
「公道は走りませんよ。これは、世界中の人々の心に『熱狂』を造り出すための、最強の広告塔です」
芳信はホワイトボードの前に立ち、素早い手つきで巨大なコースの図面を描き始めた。
右へ左へと曲がりくねり、長い直線を持つ、歪な形をした環状の道。
「自動車を単なる移動手段や物流の道具として売るだけでは、いずれ価格競争に巻き込まれます。我々に必要なのは、九条の車に憧れ、夢中になる『ブランド力』だ。人間の闘争本能を刺激し、血湧き肉躍るエンターテインメント……すなわち、『モータースポーツ』という巨大な産業を創設します」
芳信はマーカーで図面を力強く叩いた。
「この図面は、専用のサーキット(競技場)です。場所は富士の裾野がいい。全長五キロメートルを超える、超高速テストコース兼、国際規格のサーキットを建設します。そこで、この『紫電』を走らせる」
秀一が顎に手を当て、鋭い視線を向けた。
「自社のコースで自社の車を走らせて、何が面白いんだ? ただの性能試験ではないのか?」
「一人で走っても意味はありません。だから、招待状を送るんです」
芳信の瞳の奥で、かつて泥濘の演習場で見せたのと同じ、好戦的な炎が揺らめいた。
「ヨーロッパの伝統あるメーカー……アルファロメオやメルセデス・ベンツ。そして、我々を大量生産で飲み込もうとしているアメリカのフォードやGM。彼らすべてに果たし状を送りつけます」
芳信は両手を広げ、演説するように語り続けた。
「『兵器での殺し合いは終わった。これからは、純粋なエンジンの技術とドライバーの腕で、どちらが優れているか白黒つけようじゃないか』とね。他国を敵に回すのではなく、ライバルとして同じ舞台に立たせる。自動車業界全体を巻き込んで、世界最大の『お祭り』を主催するんです」
隆明が、面白そうに口角を上げた。
「なるほど。戦争の代わりに、サーキットで代理戦争を行わせるというわけか。勝てば九条の技術力が世界一であるという圧倒的な証明になり、大衆車もトラックも飛ぶように売れる。負ければ……いや、君が負けるつもりで車を造るはずがないな」
「当然です。軍事技術の開発で培った新素材、過給機のノウハウ、すべてをこの一台に注ぎ込む。そして、このレース機構の国際的なルール作りも、我々が主導権を握ります。ルールを制する者が、ビジネスを制するんですよ」
芳信の冷徹な計算と、純粋な車への情熱が融合したそのビジョンに、秀一は小さく笑い声を漏らした。
「お前という奴は……戦争が終わっても、少しも休む気がないらしいな。分かった。政治的な根回しや、国際機関の設立に向けた各国の要人への働きかけは私が引き受けよう。外務省にも話をつけておく」
「資金の心配は無用だ、芳信。サーキットの建設費用から、海外メーカーを招致するための莫大な賞金まで、西條財閥が全面バックアップしよう。世界中のメディアを富士の裾野に集めてみせるさ」
隆明も力強く頷き、芳信の肩を叩いた。
頼もしい家族と親友の言葉に、芳信は窓の外、広がる帝都の青空を見上げた。
前世で愛してやまなかった、オイルと焦げたゴムの匂いが立ち込めるサーキット。
命を削ってコンマ一秒を競い合う、あの純粋な熱狂の世界を、この手で一から創り上げるのだ。
大砲の撃ち合いは終わった。
しかし、九条芳信の心臓は、いまだかつてないほどの高回転で脈打っている。
「さあ、始めましょう。白煙とスキール音が支配する、新しい時代の宣戦布告を」
平和な空の下、最高速の夢を乗せた『紫電』の開発が、今ここに産声を上げたのである。




