第42話 灰燼を免れた帝都と、新たなるサーキット
昭和十九年(一九四四年)夏。
本来の歴史であれば、この国の空はすでに絶望的な色に染まり始めていたはずだった。
サイパン島が陥落し、絶対国防圏が破綻し、やがて銀色の怪鳥B‐29が帝都の空を覆い尽くして、すべてを焼き払う。
数百万の命が灰と化し、飢えと泥濘の中で這いつくばる、あの破滅の未来。
だが、九条芳信の眼下に広がる帝都・東京の景色は、その記憶とは決定的に異なっていた。
品川の九条自動車工業・本社ビル最上階。
執務室の巨大なガラス窓から見下ろす帝都は、焦土などではなく、初夏の陽光を浴びて逞しく脈打っていた。
工場の煙突からは活気ある煙が立ち上り、アスファルトで舗装された幹線道路には、九条製の六輪トラックや重厚な高級セダン、そして街を鮮やかに彩るカラーバリエーション豊富な大衆向け小型車が、国家の血流のごとく絶え間なく行き交っている。
「……五千万の命、か」
芳信は、右手についた微かなオイルの染みを指の腹で擦りながら、誰にともなく呟いた。
スイスでの講和会議が無事に結実し、日米間の戦闘状態は事実上凍結された。
アメリカの圧倒的な物量に対し、芳信は「勝つ」ことではなく、徹底的な防空網とロジスティクスによる「出血の強要」を選択した。
アメリカ本国に厭戦気分を植え付け、費用対効果という冷徹な計算で彼らの戦意をへし折ったのだ。
結果として、本土は一発の爆弾も浴びることなく、天皇制と本土のインフラを維持したまま、実質的な痛み分けに持ち込むことに成功した。
「英雄気取りか? 似合わないぞ、芳信」
背後から、静かだが重みのある声が響いた。
振り返ると、見慣れたスリーピーススーツを完璧に着こなした兄・秀一と、西條財閥の若き総帥となった西條隆明が立っていた。
「英雄などという非論理的な単語は、僕の辞書にはありませんよ、兄さん。僕はただ、自分のテストコースと生産ラインを焼かれたくなかっただけだ。燃えカスの上では、最高の車は走らせられませんからね」
芳信が冷たく笑うと、隆明が肩をすくめた。
「相変わらずの車バカだな。だが、君のその『バカ』のおかげで、西條と三菱の資本は紙屑にならずに済んだ。それに……」
隆明は視線をドアの方へ向けた。
「彼らも、命を散らさずに済んだわけだ」
軍靴の音が響き、執務室に二人の男が入ってきた。
一人は陸軍少将となった進藤拓也。
もう一人は海軍大佐・神崎烈。
かつて芳信の技術を「戦争の歯車」として貪欲に求めた男たちだ。
しかし、彼らの表情はどこか虚ろだった。
講和により、軍備は大幅な縮小を余儀なくされる。
巨大な予算を飲み込んでいた陸海軍の機械化部隊と航空艦隊は、今やその存在意義を失いつつあった。
「芳信……」
進藤が、絞り出すような声で口を開いた。
「我々の戦争は、終わった。貴様が用意した『鋼の防潮堤』のおかげで、国は残った。それは感謝している。だが……俺の部下たちは、あの巨大な鉄獣を降りて、これから何を拠り所に生きればいい? 牙を抜かれた軍隊に、何の意味がある?」
神崎も沈痛な面持ちで頷いた。
「海軍も同じだ。空を統べるために造り上げた航空機たちは、ただ格納庫で埃を被るのを待っている。これが、お前の望んだ平和か?」
死に場所を失った軍人たちの怨念にも似た問いかけ。
だが、芳信の瞳には、一切の同情も感傷もなかった。
ただ、極限まで研ぎ澄まされた「怪物」としての凄絶な光が宿っているだけだ。
芳信はゆっくりとデスクへ歩み寄ると、その上に広げられていた巨大な青写真をバサリと翻した。
「終わった? 誰がそんなことを言いましたか、進藤少将。神崎大佐」
芳信の冷徹な声が、執務室の空気を一変させた。
「大砲の撃ち合いが終わっただけです。殺し合いという、最も非効率で原始的なコスト競争が終了したに過ぎない。……本当の『戦争』は、これから始まるんですよ」
芳信が指差した図面には、戦車でも戦闘機でもない、見慣れぬ機械の構造が描かれていた。
それは、流線型の美しいボディラインを持つ、完全な民間用乗用車の設計図だった。
しかし、その隣には、彼らが見たこともない異形の航空機や、筒状の飛翔体、そして宇宙空間すら見据えたような軌道計算式が並んでいた。
「アメリカは必ず来る。銃や爆弾ではなく、圧倒的な資本と大量生産された商品を持って、この国を経済的に呑み込みに来る。彼らの巨大な自動車産業が、平和という名の下に我々の市場を蹂躙しにやって来るんです」
芳信は、図面の上を這うように指を滑らせた。
「だから、迎え撃つ。ですが、その為に軍事を疎かにするつもりは毛頭ない。防衛力という『盾』がなければ、経済という『矛』を振るうことすらできないのだから。進藤少将、装甲車の一部は解体し、トラクターや大型輸送トラックに転用しますが、軍の規模は縮小しても、その『質』は劇的に向上させます」
進藤が怪訝な顔で青写真を覗き込む。
「質、だと……?」
「ええ。旧態依然とした歩兵の突撃など、もう時代遅れです。これからは、垂直離着陸が可能な回転翼機による電撃的な部隊展開、そして、誘導装置を備えた無人飛翔体による精密打撃が主役になります。神崎大佐、海軍も同じです。大艦巨砲は完全に終わりを告げ、これからはより洗練された新型空母と、音速を超える全天候型戦闘機の時代になる」
神崎の目が、驚きに見開かれた。
「音速を超える、だと……? そんなものが……」
「造りますよ、僕がね。さらに将来的には、大気圏外から敵の動向を監視する『人工衛星』の打ち上げすら視野に入れている。極言すれば、僕が目指すのは『完全無人化された防衛システム』です」
芳信は、二人の軍人を真っ直ぐに見据えた。
「自軍の兵士を一人も死なせない。人的損害をゼロにする。それが、究極の国防です。そして、その過程で生み出される最先端の軍事技術――強靭な新素材、精密な通信網、高度なコンピュータ制御技術は、少しずつ民間に転用していく。それが、巡り巡って国民の生活を豊かにし、国力そのものを底上げするんです」
進藤と神崎が息を呑む。
彼らが失いかけていた「国防」という概念が、九条芳信という怪物の手によって、より巨大で、より洗練された未来のシステムへと再定義されていく。
彼らの目に、再び熱い火が灯り始めていた。
秀一と隆明は、顔を見合わせて静かに微笑んだ。
彼らは知っているのだ。
この男にとって、戦争すらも自らの「最高の一台」を造るための環境整備に過ぎなかったことを。
「僕の理想とする車を造るために、国家のインフラを整備し、財閥を巻き込み、軍を動かして戦争を生き延びた。すべては、この『平和な舗装路』を手に入れるためだ」
芳信は、右手についたオイルの匂いを嗅ぐように、顔の前に手をかざした。
「強力な盾で国を守りつつ、アメリカのデトロイトに、我々のエンジン音を叩きつける。彼らが百年かかっても追いつけないほどの、絶対的な精度と効率。それをこの日本の、九条の工場から生み出す」
コンコン、と控えめなノックの音がして、白髪の混じった初老の男が顔を出した。
生産統括の黒木伝蔵だ。
「総帥。例の『新型心臓』のプロトタイプ、組み上がりましたぜ。いつでも火を入れられます」
黒木の言葉に、芳信の口角が吊り上がった。
それは、冷徹な技術の怪物が見せた、前世から変わらぬ純粋な「車バカ」の笑みだった。
「行くぞ、皆。泥濘の時代は終わった。ここからは、最高速を競う新たなるサーキットだ」
昭和十九年、夏。
灰燼を免れた帝都の片隅で、世界中を席巻することになる新たな鋼の咆哮が、今まさに産声を上げようとしていた。
九条芳信の、二度目の人生の「本番」が、ついに幕を開けたのである。




