第40話 鋼鉄の防潮堤、未来への咆哮
昭和十七年(一九四二年)秋。
太平洋の戦局は、芳信が予見した通りの苛烈な消耗戦へと移行していた。
ハワイを無傷で残されたアメリカ海軍は、本国からの猛烈な補給と新造艦の投入により、太平洋を西へ西へと押し進んできた。
だが、彼らの前に立ちはだかったのは、史実のような薄弱な防衛線ではなかった。
ソロモン諸島からニューギニアに至る南洋の島々は、九条芳信のロジスティクスと重機によって、コンクリートと鉄筋で固められた「不沈空母」と化していた。
「また敵の機動部隊が接近しています。レーダーに感あり」
前線の地下トーチカで、防空レーダーの画面を見つめる兵士が緊張した声を上げた。
「迎撃機、発進せよ。対空砲火は敵機を引き付けてから撃て。無駄弾は一発も撃たせるな」
前線指揮官の冷静な指示とともに、隠蔽された滑走路から九条製の新型局地戦闘機が次々と飛び立ち、凄まじい上昇力で空へ躍り出る。
アメリカ軍の爆撃機編隊は、目標の上空に到達する前に、レーダーによる正確な誘導と厚い防弾鋼板を備えた日本の迎撃機によって、文字通り壁にぶつかったように次々と叩き落とされていった。
「クソッ、ジャップの戦闘機はいつからあんなに硬くなったんだ。弾が弾かれるぞ」
「対空砲火が濃すぎる。この島は丸ごと要塞だ」
アメリカ軍のパイロットたちの悲鳴が、無線の波を飛び交う。
彼らは、自分たちが戦っているのが狂信的な大和魂ではなく、冷酷に計算し尽くされた工業力とロジスティクスの防潮堤であることに恐怖すら感じ始めていた。
その頃、帝都の大本営地下会議室では、重苦しい空気が漂っていた。
連合艦隊司令長官をはじめとする強硬派の将官たちが、海図を叩いて声を荒らげている。
「このまま防衛戦を続けてもジリ貧だ。我が海軍の主力空母部隊をもって、ミッドウェー、あるいはハワイに再度攻勢をかけ、敵の出鼻を挫くべきである」
彼らの主張は、武士道精神に則った華々しい決戦を求める軍人特有の焦りから来るものだった。
その熱気を、会議席の末座に座る九条芳信が、氷のような視線で見つめていた。
「……攻勢に出る。それは、この国を半年で滅ぼすための最悪の選択です」
芳信の静かで冷徹な声が、会議室の喧騒をピタリと止めた。
「九条、貴様は引っ込んでおれ。これは高度な戦略次元の話だ」
参謀の一人が怒鳴りつけたが、芳信は鞄から分厚いデータファイルを出し、無造作に卓上に滑らせた。
「戦略とは、希望的観測ではなく数字で語るべきものです。皆さんは、我々が戦っている相手の本当の姿を理解していない」
芳信は黒板の前に立ち、チョークを手にした。
「現在のアメリカの年間粗鋼生産量は八千万トン。対する我が国は、満州の生産量を合わせても五百万トンに届かない。実に十六倍の差です。彼らが本気で戦時増産体制に入れば、来年には年間数万機の航空機と、数十隻の空母を平然と海に浮かべてきます」
芳信が書き込む絶望的な数字に、将官たちは息を呑んだ。
「出鱈目だ。そんな生産力が実在するはずがない」
「出鱈目ではありません。アメリカ国内の電力消費量、工作機械の発注数、そして自動車産業の生産設備を航空機に転用した場合の稼働率から弾き出した、最も現実的な予測値です。疑うなら、このファイルの計算式を一つ一つ検算していただきたい」
芳信は一切の感情を交えず、淡々と事実を突きつけた。
「もしここで攻勢に出た場合、どうなるか。前線が伸びれば、補給のための輸送船がさらに必要になる。僕のシミュレーションによれば、アメリカの潜水艦と哨戒機による通商破壊網を突破してハワイ近海まで補給線を維持した場合、我が国の輸送船の損耗率は現在の三倍に跳ね上がります」
芳信は黒板に、急激に下降する折れ線グラフを描いた。
「南方からの資源が途絶えれば、九条の人造石油プラントが稼働していても、鉄鉱石とボーキサイトの備蓄は半年で底を突く。つまり、攻勢に出たが最後、半年後にはこの国のすべての航空機と軍艦が、燃料と部品不足で完全な鉄屑に変わるということです」
「……では、我々にこのままジリ貧で死ねと言うのか」
司令長官が、血を吐くような声で呻いた。
「ジリ貧ではありません。出血を強要するんです。……敵に、ではなく、アメリカの『世論』に」
芳信はチョークを置き、居並ぶ将官たちを見据えた。
「僕たちが築いた南洋の絶対防衛網に引きこもり、徹底した防空戦とゲリラ戦を行えば、こちらの損害一に対して、敵に三以上の損害を強いることができる。民主主義国家であるアメリカは、目に見える戦果のないまま自国の若者の血が際限なく流れることに、絶対に耐えられません」
芳信の言葉は、精神論を完全に排除した、極めて冷酷な算盤勘定であった。
「補給線を極限まで縮小し、資源の輸入ルートだけを死守する。そして局地的な防御戦で敵の死傷者数を天文学的に跳ね上げる。……それだけが、我々が講和のテーブルに着くための唯一の手段です。これに反して攻勢に出るというなら、僕は九条の全生産ラインの維持を保障できません」
それは脅迫ではなく、物理法則を説くような残酷な真実の提示であった。
会議室を支配する沈黙は、強硬派の将官たちが物理的な限界を前に完全に屈服したことを意味していた。
数日後。
芳信は、久しぶりに川崎の工場の屋上に出た。
夜空には星が輝き、遠くの海からは潮の香りが微かに運ばれてくる。
彼はポケットから、かつてこの場所で投げたのと同じ、銀色の紙飛行機を取り出した。
満州の泥濘から始まり、政治、軍事、経済のすべてを裏から支配し、世界最大の国家を相手に強引に築き上げた鋼鉄の防潮堤。
そのすべては、この星空の下で、家族が静かに眠る世界を守るためだけの、長く苦しい打算の道程であった。
「……あと少しだ。あと少しで、僕の造りたかった車が造れる時代が来る」
芳信は、銀色の紙飛行機を夜空へと放った。
紙飛行機は風に乗り、川崎の工場の煙突を越え、はるか遠く、見えない未来の地平線へ向かって静かに飛んでいった。
それは、激動の昭和という狂気の時代を、たった一人で背負い、技術と打算で歴史をねじ曲げた先駆者の、名もなき勝利の咆哮であった。




