第39話 赤道直下の銀翼、要塞化する南洋
昭和十六年(一九四一年)十二月。
アメリカ政府による「ハル・ノート」の最後通牒が提示された数日後、日本政府はついにアメリカ合衆国および大英帝国に対する宣戦布告を行った。
史実であれば、この直後にハワイの真珠湾が奇襲され、アメリカ国民の復讐心という決して消えない業火に火をつけるはずであった。
だが、この世界線の開戦劈頭において、日本軍がハワイへ向かうことはなかった。
九条芳信が構築した兵站と航空戦力の「物理的限界」を前に、海軍上層部は真珠湾攻撃を完全に放棄し、芳信が強硬に主張した「南洋絶対防衛圏」の構築へと全戦力を振り向けていたのである。
開戦から数日後。
フィリピンからインドネシアへと至る南洋の空を、銀色に輝く無数の九四式大型輸送機『白鳥』が覆い尽くした。
「第一輸送大隊、目標上空に到達。空挺降下、および重機材の投下を開始する」
無線機から響く淡々とした声とともに、『白鳥』の巨大なカーゴドアが開かれた。
そこから次々と飛び出していくのは、精鋭の歩兵部隊だけではない。
芳信が設計した組み立て式のトーチカ、対空レーダーのアンテナ部品、そしてそれらを稼働させるための小型発電機といった、防御陣地を構築するための莫大な物資が、白いパラシュートの花を咲かせながら熱帯の島々へと降り注いでいった。
「よし、着地と同時に陣地の構築にかかれ。九条の重機があれば、三日でこの島は要塞になるぞ」
地上に降り立った工兵部隊が、輸送機から投下された小型のブルドーザーを起動させる。
史実では兵士たちがスコップ一つでジャングルを切り開いていたのに対し、九条のロジスティクスは機械力によって陣地構築の速度を数十倍に跳ね上げていた。
さらに、上空には芳信の設計した新型の艦上戦闘機が、アメリカの航空戦力を圧倒する速度と旋回性能で制空権を完全に掌握している。
前世の記憶で兵士たちを苦しめた「飢え」と「弾薬不足」は、絶え間なく飛来する『白鳥』の補給網によって完全に払拭されていた。
「進藤大佐。南方の資源地帯の制圧と、絶対防衛圏の構築状況はどうなっている」
帝都・川崎の九条本社司令室で、芳信は無線機に向かって問いかけた。
『順調だ。米英の植民地軍は、我々の圧倒的な物量と機動力の前に戦意を喪失している。……だが芳信、アメリカの主力艦隊は無傷でハワイに残っているんだぞ。奴らが本国から戦力をかき集めて西へ向かってきたら、どうするつもりだ』
南方軍の参謀として前線に赴いている進藤の言葉には、目先の勝利に浮かれない厳しい響きがあった。
「来させればいいんだよ、進藤さん」
芳信は防音硝子越しに、工場のラインから次々と生み出される新型の対空兵器群を見下ろしながら、冷徹な笑みを浮かべた。
「彼らが太平洋を横断して来る間に、僕たちはこの南洋の島々を、彼らの航空機と兵士を無限に吸い込む『ブラックホール』に変える。……アメリカの世論は、血の代償には耐えられない。僕たちが築く防潮堤で、彼らの戦意をすり潰すんだ」
ハワイを攻撃せず、アメリカ本国を直接脅かさず、ただひたすらに「自分たちの庭」を要塞化し、近づく敵にだけ致命的な出血を強いる。
それは、アメリカの圧倒的な工業力を正面から受け止めるのではなく、民主主義国家特有の「厭戦気分」を呼び起こすための、極めて政治的かつ打算的な防衛戦略であった。
その夜、九条本邸の居間では、ラジオから勇ましい軍艦マーチとともに、南方での連戦連勝のニュースが流れていた。
「芳信。あなたが造った飛行機が、兵隊さんたちを助けているのね」
姉の華子が、安堵したような表情で芳信に微笑みかけた。
「ええ、お姉様。僕の飛行機が空を飛んでいる限り、誰一人として飢えることはありません」
芳信は優しく頷いたが、その瞳の奥には深く暗い海が広がっていた。
連戦連勝のニュースは、あくまで開戦直後の局地的な優位に過ぎない。
本国で莫大な予算を投じて新型空母と航空機を量産し始めているアメリカ軍が、いずれこの鋼鉄の防潮堤を怒涛の勢いで叩き割りに来ることは、火を見るより明らかであった。
『……あと三年。この防潮堤を三年維持できれば、講和の糸口が掴めるかもしれない』
芳信は、静かに目を閉じて計算を繰り返した。
自分が握った国家のステアリングが、狂気と破滅の断崖絶壁に沿って走っていることを誰よりも理解している。
それでも彼は、家族の笑顔と、この国が「生き残るための未来」を繋ぐため、油と血に塗れたアクセルをさらに深く踏み込むのであった。




