第38話 絶対防空網と、巨人の足音
昭和十六年(一九四一年)夏。
アメリカ政府が日本に対する石油の全面輸出禁止措置を発動したという報せが、帝都を震撼させた。
これまで屑鉄や航空機燃料などの制限に留まっていた制裁が、ついに国家の血液たる石油そのものを完全に断ち切るという、事実上の死の宣告に踏み切ったのである。
史実であれば、この絶望的な状況下で日本は一か八かの開戦を決意し、破滅の坂道を転げ落ちていく。
だが、この世界線の日本には、九条芳信が数年前から莫大な資本を投じて構築していた「防潮堤」が存在した。
「九州と満州の人造石油プラント、稼働状況は良好です。抽出された合成燃料のオクタン価も、新型エンジンの要求水準をクリアしています」
川崎の九条自動車工業・司令室で、黒木伝蔵が報告書を読み上げた。
芳信は防音硝子越しに、ハンガーにずらりと並ぶ銀翼の戦闘機群を見下ろしながら静かに頷いた。
「なんとか間に合ったね。これでアメリカに首を絞められても、半年や一年で軍の機能が完全に停止することはない。……問題は、この時間的な猶予を、軍上層部がどう使うかだ」
芳信の懸念は的中していた。
石油禁輸の衝撃を受けた海軍の一部では、アメリカ太平洋艦隊の拠点であるハワイの真珠湾を奇襲し、早期に敵の主力を壊滅させるという乾坤一擲の作戦がまことしやかに語られ始めていたのである。
数日後、芳信は軍令部の奥深くにある極秘の会議室へと足を踏み入れた。
円卓を囲むのは、連合艦隊司令長官をはじめとする海軍の最高幹部たちである。
「九条君。君の設計した新型戦闘機と雷撃機には、我が海軍も全幅の信頼を置いている。この機体の航続距離と破壊力があれば、ハワイの米艦隊を寝首を掻くように沈めることが可能だ」
司令長官が、自信に満ちた声で作戦の概要を語った。
彼らの目には、芳信の与えた圧倒的な技術力が、不可能を可能にする魔法の杖のように映っているようだった。
だが、芳信の表情は冷酷なまでに凍りついていた。
「……却下します。真珠湾への奇襲作戦に、九条の機体を一機たりとも投入することは許可しません」
芳信の静かで、しかし絶対的な拒絶の声が、会議室の空気を凍らせた。
「な、何を言うか。これは国家の存亡を賭けた作戦だぞ。貴様一人の意思でどうにかなる問題ではない」
血気盛んな参謀の一人が立ち上がって怒鳴りつけたが、芳信は一瞥もくれなかった。
「ハワイの戦艦を沈めて、その後どうするんですか。アメリカの工業力は、我が国の数十倍です。彼らの魂に火をつければ、半年後には沈めた数以上の最新鋭艦が太平洋を埋め尽くしますよ」
芳信は卓上に、膨大なシミュレーションデータを叩きつけた。
「僕たちがやるべきは、彼らの戦意を爆発させることじゃない。彼らが攻め寄せてくるルートに、九条の戦闘機と、開発中の対空レーダー網を張り巡らせた『絶対的な防空壕』を構築することです」
芳信の指が、フィリピンから南洋諸島へと連なる防衛ラインをなぞった。
「敵の方から来させればいいんです。僕たちの庭で、地の利を活かしてひたすら敵の艦載機を撃ち落とし、出血を強要し続ける。……真珠湾という蜂の巣をつつくような真似をすれば、この国は確実に燃え尽きます」
芳信の提案は、軍人たちが夢見る華々しい大戦果とは無縁の、泥臭く、ひたすら耐え忍ぶための防御戦略であった。
だが、彼らがハワイを攻撃しようにも、主力となる航空機とそのスペアパーツ、さらには合成燃料の供給までもが、完全に九条のコントロール下に置かれている。
「……我々に、真綿で首を絞められながら防衛戦に徹しろと言うのか」
司令長官が、苦渋に満ちた声で呟いた。
「ええ。僕が造り上げたロジスティクスと航空戦力をもってすれば、三年は持ち堪えられる。その間に、アメリカ国内に『この戦争は割に合わない』という厭戦気分を植え付ける。それ以外に、我が国が生き残る道はありません」
芳信の言葉は、反論を許さない絶対的な重みを持っていた。
会議室に重苦しい沈黙が降り下りた後、司令長官は深く目を閉じて頷くしかなかった。
九条芳信という存在が、国家の軍事戦略そのものを力ずくで書き換えた瞬間であった。
その夜。
川崎の工場の屋上で、芳信は夜風に吹かれながら星空を見上げていた。
真珠湾攻撃という歴史のターニングポイントを回避し、徹底的な防衛戦へと舵を切ることに成功した。
だが、開戦そのものを避けることはもはや不可能である。
「……お菊」
芳信の背後に、いつの間にか乳母のお菊が立っていた。
手には、芳信のために淹れた温かい茶が握られている。
「坊ちゃま。夜風が冷たくなりました。あまり無理をなさらないでくださいね」
「ありがとう。……でも、少し休む暇もなさそうなんだ」
芳信は温かい湯飲みを受け取り、その温もりに少しだけ顔を綻ばせた。
「これから、誰も経験したことのない恐ろしい時代が来る。でも、僕が絶対に、みんなを守ってみせるよ」
「ええ。坊ちゃまがそうおっしゃるなら、きっと大丈夫ですとも。坊ちゃまの造るものは、いつも私たちを守ってくれますから」
お菊の純粋な信頼の言葉が、芳信の胸に重く、そして温かく響いた。
開戦の足音は、もうすぐそこまで迫っている。
だが、芳信が張り巡らせた鋼鉄の防潮堤は、アメリカという巨人の一撃を迎え撃つための準備を、着実に整えつつあった。
歴史の濁流に抗う少年の孤独な闘いは、いよいよ最大の正念場を迎えようとしていたのである。




