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オーバー・レブ・ヒストリー 〜車を愛し過ぎた少年の国家魔改造録〜  作者: tky@複数作品を同時連載中
第3章:圧倒的な物量と鉄壁の防衛網

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第37話 鋼の楔と、束の間の静寂

昭和十五年(一九四〇年)夏。


欧州の戦線においてドイツ軍は破竹の進撃を続け、ついにパリを陥落させた。


この圧倒的な戦果は、大日本帝国の軍部、特に陸軍の急進派を熱狂させ、「バスに乗り遅れるな」とばかりに日独伊三国同盟の締結を求める声が爆発的に高まっていた。


史実であれば、この年の秋に三国同盟は締結され、日本はアメリカとの決定的な対立、すなわち破滅の戦争へと一直線に転がり落ちていく。


だが、帝都の奥深くで国家のステアリングを握る九条芳信は、この致命的な悪手だけは何としても阻止しなければならなかった。


「進藤大佐。親独派の将校たちが、同盟を渋る若槻内閣の倒閣を企てているというのは本当ですか」


芳信は参謀本部の一室に乗り込み、冷ややかな視線を居並ぶ将官たちに向けた。


「九条、貴様のような一介の技術者が口出しする問題ではない。ドイツと結ばねば、我が国は世界から取り残されるのだぞ」


急進派の一人が机を叩いて怒鳴りつけたが、芳信は表情一つ変えなかった。


「世界から取り残される前に、あなたがたの軍隊が物理的に停止しますよ」


芳信は鞄から分厚いデータファイルを出し、将官たちの前に放り投げた。


「九条の工場が、いかにしてあなたがたの愛する装甲車や航空機を量産しているか、理解していますか。現在、九条の生産ラインを支える精密工作機械の八割、そしてエンジンに必要なレアメタル等の原料の六割が、アメリカからの輸入に依存しています」


その事実の提示に、会議室の空気がピタリと止まった。


「同盟を結んでアメリカを決定的に敵に回せば、即座に禁輸措置が発動される。そうなれば、僕の工場はひと月で完全に停止する。それはつまり、陸軍の兵站が死ぬということです」


「ば、馬鹿な。ドイツの技術を導入すれば……」


「ドイツの工作機械が、イギリス海軍の封鎖を突破して極東まで届くとでも? 精神論でエンジンは回らない。僕が主導している人造石油プラントと自給体制が完全に稼働するまで、アメリカを刺激することは絶対に許さない」


芳信は机に両手をつき、将官たちを圧倒する凄みを見せた。


「同盟を結びたければ結べばいい。ですがその翌日から、僕からの部品供給はゼロになる。それでもよければ、ご自由にどうぞ」


それは反逆でもサボタージュでもなく、誰も覆せない「物理的限界」を盾にした、絶対的な恫喝であった。


軍令部も参謀本部も、九条の技術に完全に依存しきっている現状では、この冷酷な数字の前にぐうの音も出なかった。


結果として、軍部は九条という「鋼の楔」によって行動を封じられ、三国同盟の締結は無期限の延期という形で棚上げされたのである。


芳信が孤独な闘いで国を救ったその数週間後、川崎の九条本社の奥深くにある秘密のガレージで、ある一台の車が完成の時を迎えていた。


それは、軍用車両のような無骨なカーキ色ではなく、月明かりを吸い込むような深いミッドナイトブルーに塗装された、流麗な最高級セダンであった。


防弾鋼板や重装甲は一切施されていない。


芳信が純粋に「美しさと静けさ」だけを追求して設計し、職人たちが手作業で磨き上げた、平和な時代のためのプロトタイプである。


「……本当に、美しい車ね、芳信」


夜の静寂の中、ガレージを訪れた姉の華子が、その流線型のボディに見惚れて感嘆の声を漏らした。


「ええ、お姉様。約束通り、あなたを乗せるために造りました。今夜は、少しだけ帝都をドライブしましょう」


芳信は優しく微笑み、華子を助手席にエスコートして自らハンドルを握った。


芳信が新開発したV型十二気筒エンジンが静かに目覚める。


それは軍用の甲高い咆哮とは全く異なる、絹を裂くような滑らかで上品な重低音であった。


ミッドナイトブルーのセダンは、ガレージを滑り出て、煌びやかなネオンが灯る帝都の大通りへと走り出した。


車内には外界の騒音は一切届かず、ただ極上の静寂と、本革シートの心地よい匂いだけが満ちていた。


「信じられないわ。車に乗っているのに、まるで高級ホテルのラウンジでくつろいでいるみたい」


華子は窓の外を流れる夜の街並みを眺めながら、心底嬉しそうに笑った。


「お姉様が弾くピアノの旋律に似合うように、徹底的に遮音性を高めましたから。……本当は、この車をたくさん造って、世界中の綺麗な道を走らせたいんです」


芳信はハンドルを握りながら、ぽつりと本音をこぼした。


「きっとできるわ。あなたが造るものは、いつも世界を驚かせるのだから。いつか、戦争なんて遠い昔の話になったら、この車で遠くまで旅行に行きましょうよ」


華子の純粋な言葉が、芳信の胸を締め付ける。


芳信は知っているのだ。


この束の間の静寂が、長くは続かないことを。


アメリカとの決定的な破局を先延ばしにしている間に、少しでも長くこの家族との平穏を守りたかった。


「ええ、必ず。……必ず、そんな時代を僕の手で創り出してみせます」


芳信は姉を安心させるための優しい嘘をつきながら、暗い夜の闇の先を睨みつけた。


翌朝。


アメリカ政府が日本に対する航空機用燃料および屑鉄の輸出制限を正式に発表したという報が、帝都を震わせた。


同盟を回避してもなお、アメリカによる日本封じ込めという歴史の濁流は止まらなかったのである。


それは、日本という国家の首に回された真綿が、ついに強く引き絞られた瞬間であった。


だが、その絶望的なニュースの裏で、芳信の元には一通の極秘電報が届いていた。


『九州ノ人造石油プラントニテ、第一号ノ合成燃料精製ニ成功セリ』


芳信は電報を握りつぶし、口元に冷酷な笑みを浮かべた。


「間に合った。これで、アメリカの首輪を食い破る準備は整った」


平和なセダンで姉と過ごした束の間の静寂は終わりを告げた。


九条芳信は、マシな敗戦へと向かう凄惨なロードマップの、次なるページを容赦なくめくるのであった。

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