第36話 北の鉄嵐、操られた勝利
昭和十四年(一九三九年)夏。
満州とモンゴルの国境に広がるノモンハンの荒野において、日ソ両軍による大規模な武力衝突が発生した。
史実のままならば、ここで日本軍はソ連の圧倒的な機械化部隊と圧倒的な物量の前に蹂躙され、凄惨な敗北を喫して北方の脅威に震え上がるはずであった。
だが、九条芳信という特異点が介在したこの世界線の戦場には、ソ連の装甲部隊すらも凌駕する異形の鉄獣たちが解き放たれていたのである。
「撃て。あの鉄の棺桶どもを、この荒野の塵に変えてしまえ」
前線で指揮を執る陸軍将校の狂喜に満ちた号令とともに、乾いた発砲音が大地を揺るがした。
九条自動車工業が秘密裏に開発し、独立機械化大隊に配備されていた新型の対戦車自走砲である。
『ガーディアン』の車体をベースに高初速の徹甲砲を搭載したその車両は、ソ連軍のBT戦車の薄い装甲を遠距離から次々と貫通し、炎の柱へと変えていった。
上空を見上げれば、芳信が設計した液冷エンジンの九八式戦闘機が、空力特性に劣るソ連の戦闘機を圧倒的な速度と旋回性能で翻弄している。
「勝てる。我が軍の機械化部隊は、ついに露助の戦車軍団を超えたのだ」
前線の将兵たちは、積年の脅威であったソ連軍を一方的に蹂躙する快感に酔いしれ、さらなる進撃を熱望していた。
だが、その圧倒的な勝利の報を帝都の司令室で受け取った芳信の表情は、氷のように冷たかった。
「……馬鹿な連中だ。ここでソ連の面子を完全に潰し、全面戦争に発展すれば、我が国の国力では半年も持たずに崩壊する」
芳信は司令室の巨大な地図を睨みつけ、苛立たしげに赤鉛筆をへし折った。
広大なシベリアの大地に深入りすれば、いかに九条の装甲車が優秀であろうと、伸びきった補給線は必ず破綻する。
アメリカという真の巨人と対峙する前に、北方の泥沼に国力をすり減らすことなど、最悪の結末を回避するためのロードマップにおいては絶対に許されない愚行であった。
「進藤大佐。前線への燃料と弾薬の補給ラインは、現在の位置を限界点として凍結しろ。これ以上の進撃に対する補給の保証は一切しないと、参謀本部と関東軍に正式に通告するんだ」
芳信は傍らに立つ進藤に、冷静な声で命じた。
「芳信、正気か。前線は勝っているんだぞ。今ここで補給の限界を理由に足を止めさせれば、現場の将兵たちの不満が爆発する」
進藤は血相を変えて詰め寄ったが、芳信は一歩も引かなかった。
「コストと生産力の限界だよ。広大なシベリアに補給線を伸ばせば、莫大な数の輸送トラックと燃料がただ消費されていくだけだ。アメリカという真の脅威が迫る中、北方の泥沼に国力を浪費する余裕は、この国には一ミリもない」
「だが、前線の連中がその理屈に納得するとは思えん」
「理解が得られなくても構わない。九条の生産能力とロジスティクスが追いつかないという、物理的で正当な理由があるんだ。補給が続かないと正式に通告されれば、どれだけ血気盛んな将軍でも、進撃を止めて防御陣地を築かざるを得ない。勝っているうちに、強引に手打ちにするんだ」
芳信の瞳に宿る底知れない合理性に、進藤は背筋を凍らせながらも頷くしかなかった。
数日後、ノモンハンの前線では奇妙な事態が発生していた。
ソ連軍を圧倒し、追撃に移ろうとしていた日本軍の主力部隊のもとに、九条からの輸送網が限界に達したという公式な通告が届いたのである。
「どうなっている。弾がなければ、これ以上は進めないぞ。なぜこんな時に補給が止まるのだ」
現場の将校たちが本部に怒鳴り込んでも、返ってくるのは「これ以上の補給線の延伸は物理的・コスト的に不可能である」という絶望的な報告だけであった。
結果として、日本軍は圧倒的な優勢を保ったまま進撃を停止し、ソ連側も想定外の損害に恐れをなして、両軍は不自然な膠着状態のまま停戦協定を結ぶこととなった。
前線の将兵からは不満が爆発したが、軍中央は沈黙するしかなかった。
軍令部も参謀本部も、九条の兵站網なしでは近代戦が一日たりとも維持できないという残酷な現実を、この『操られた勝利』によって完全に突きつけられたのである。
同年九月一日。
ドイツ軍がポーランドに侵攻し、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告をしたという凶報が世界を駆け巡った。
第二次世界大戦の勃発である。
「……ついに、欧州が火の海になったか」
芳信は若槻首相から呼び出された首相官邸の執務室で、新聞の号外をテーブルに放り投げた。
「芳信君。ドイツの快進撃を受けて、陸軍内では独伊との軍事同盟を急ぐべきだという声が日増しに高まっている。これを抑え込むのは、もはや政治の力だけでは厳しい」
若槻は深い皺の刻まれた顔をさらに歪め、目の前の少年に助けを求めるような視線を送った。
「同盟など言語道断です。ドイツと手を結べば、アメリカを決定的に敵に回し、経済封鎖の口実を与えるだけだ」
芳信はソファに深く腰掛け、組んだ指の先で唇を覆った。
「総理は、表向きは同盟交渉のテーブルに着くふりをして、徹底的に時間を稼いでください。その間に、僕は軍の親独派の喉首を、冷酷な数字と現実で締め上げます。僕が首を縦に振らない限り、この国の軍隊は同盟など結べないようにしてやる」
十三歳でこの国のステアリングを握った少年は、十六歳となった今、国家のブレーキそのものとして、破滅へのカウントダウンを力ずくで引き延ばそうとしていた。
泥濘の荒野から始まった孤独な闘いは、世界を巻き込む巨大な嵐の中で、さらに凄絶な次元へと突入していくのであった。




