第31話 虚飾の祝宴と、空を覆う暗雲
昭和八年(一九三三年)四月。
国際連盟からの脱退という外交的孤立とは裏腹に、国内の新聞各紙は連日のように未曾有の好景気を報じていた。
九条芳信が敷いた『道路特定財源』による大規模なインフラ整備と、満州事変以降の膨大な軍需発注。
それらが牽引する形で重工業はフル稼働を続け、帝都は享楽と活気に満ち溢れていたのである。
その繁栄の象徴とも言える華やかな祝宴が、帝都の中心にある帝国ホテルで催されていた。
九条家の嫡男である秀一と、侯爵家であり巨大財閥を束ねる西條家の令嬢・雪子の結婚披露宴である。
シャンデリアの眩い光が降り注ぐ会場には、政治家、軍の上層部、そして財界の重鎮たちが顔を揃え、両家の結びつきがいかに強大であるかを見せつけていた。
「芳信。ネクタイが少し曲がっていますよ」
仕立ての良い学生服に身を包み、会場の隅で物思いに耽っていた芳信に、優しく穏やかな声がかけられた。
振り返ると、上品な留袖を見事に着こなした母の静子が、微笑みを浮かべて立っていた。
静子は芳信の胸元にそっと手を伸ばし、乱れたネクタイを直していく。
「お母様。ありがとうございます」
「いいえ。あなたは最近、工場にばかりこもって難しい顔をしているのだから。たまにはこうして、家族のお祝いの席でゆっくりと羽を伸ばしなさいな」
静子の瞳には、国家の心臓を握る「技術の怪物」に対する畏怖など微塵もない。
ただ純粋に、少し生き急いでいる次男の健康を案じる、深い母の愛情だけが溢れていた。
「そうだよ、芳信。今日ばかりは仕事の話は抜きだ」
静子の隣には、立派な燕尾服を着こなした父の正和が、グラスを片手に穏やかな笑みを浮かべていた。
「お父様。連日の根回し、お疲れ様です。僕が勝手に軍や財閥を動かすせいで、お父様には宮内省や政府への言い訳ばかりさせてしまって……」
芳信が申し訳なさそうに視線を下げると、正和は力強く息子の肩を叩いた。
「気にするな。お前が思う存分に空を飛ぶための防波堤になるのが、私の役目だからな。それに、お前のおかげで、こうして秀一と西條家との素晴らしい縁も結ばれたのだ」
正和は高砂で幸せそうに微笑み合う秀一と雪子に目をやり、目を細めた。
「芳信、素晴らしいお式ね。お兄様も雪子さんも、本当に幸せそう」
華やかに着飾った姉の華子も、華やいだ声で三人の輪に加わった。
「ええ、お姉様。本当に綺麗な花嫁姿ですね」
芳信は家族の温かい笑顔に囲まれ、張り詰めていた心がゆっくりと解けていくのを感じた。
自分の造り出しているものがどれほど血塗られた機械であろうと、この家族だけは絶対に自分を見捨てないし、自分もこの笑顔だけは絶対に守り抜かなければならない。
「九条男爵。それに芳信君。少しいいかね」
家族の団欒を断ち切るように、重厚な声とともに二人の男が歩み寄ってきた。
三菱合資会社社長の岩崎小弥太と、西條財閥総帥である西條康隆侯爵である。
「これは西條侯爵、岩崎社長。本日は誠に……」
正和が当主として挨拶をしようとしたが、西條侯爵はそれを手で制した。
「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう、男爵。我々は身内になったのですから。今日は、芳信君の知恵を拝借したくてね」
「お父様、お母様。少し失礼しますね」
芳信は家族に微笑みかけると、二人の巨大なパトロンと共に、煙草の紫煙が漂うバルコニーへと向かった。
「九条の戦闘機は、海軍の期待を一身に背負って量産体制に入りつつある。我が三菱の航空機部門も、君の描く図面にすっかり魅了されているよ」
岩崎が葉巻を燻らせながら、満足げに笑った。
「ええ。だが、僕が今日お二人に提案したいのは、戦闘機についてではありません」
芳信はバルコニーから、ネオンが煌めく帝都の夜景を見下ろしながら口を開いた。
「戦闘機ではない? では、陸軍の装甲車の増産か」
西條侯爵が訝しげに眉をひそめる。
「いいえ。僕が新たに設計したいのは、前代未聞のペイロードを持つ『大型輸送機』です。それも、何百機という単位で量産できる規格化された機体を」
芳信の言葉に、二人の財界トップは怪訝な顔を見合わせた。
当時の軍事思想において、航空機といえば敵を撃ち落とす戦闘機か、敵艦を沈める爆撃機が花形である。
物資を運ぶだけの輸送機に莫大な資本を投じるなど、全くの論外であった。
「芳信君。君の先見の明は認めるが、輸送など船か鉄道で十分ではないか。軍も輸送機などという地味なものに予算は割かんぞ。我々としても、採算が合わない話には乗れない」
岩崎の言葉は、実業家として極めて真っ当な指摘だった。
芳信が彼らに「輸送機が無ければ兵士が餓死して国が破滅する」と訴えても、巨額の投資には至らないだろう。
やはり、彼らを動かすには、冷徹な実益と打算が必要である。
「軍が予算を割かないからこそ、我々民間がやる意味があるんです」
芳信は振り返り、二人の巨頭を真っ向から見据えた。
「国際連盟を脱退した我が国は、遠からず米英との衝突を余儀なくされます。次の戦場は満州のような地続きの荒野ではありません。絶海の孤島や、道なき熱帯のジャングルです」
芳信は冷酷なまでのビジネスの論理を展開し始めた。
「海路は敵の潜水艦の標的になり、鉄道は敷くことすらできない。そうなれば、空からの輸送だけが前線の命綱になります。その時、軍は必ず我々にすがりついてくる」
芳信は言葉を切って、二人の反応を確かめた。
「軍の兵站を、財閥の空輸網で完全に下請けする。これからの戦争は、最前線で弾を撃つ人間ではなく、後方から兵器と食糧を送り届ける人間が支配します。空の輸送網を独占すれば、国家予算の根幹を永遠に握り続けることができるんです」
その言葉に、岩崎と西條侯爵は息を呑んだ。
芳信の口から出たのは、破滅の予言ではなく、戦争という国家事業のインフラを丸ごと乗っ取るという、悪魔のようなビジネスプランであった。
「……相変わらず、背筋の凍るような絵図を描く少年だ」
西條侯爵が葉巻を灰皿に押し付け、凄みのある笑みを浮かべた。
「前線の兵士たちの命綱を、我々が握る。なるほど、軍部に首輪をつけるにはこれ以上ない極上のシステムだ」
「君の狂気に、我が三菱も最後まで付き合おうではないか。輸送機の設計図が上がり次第、生産ラインの調整に入ろう」
岩崎もまた、莫大な利益と権力の匂いを嗅ぎ取り、豪快に頷いた。
二人の巨頭の承諾を得て、芳信は小さく一礼した。
バルコニーから会場へ戻ると、家族たちが芳信を待っていた。
「おかえりなさい、芳信。難しいお話は終わった?」
静子が優しく微笑みかけ、正和も穏やかに頷いている。
高砂の秀一も、遠くから弟にグラスを向けていた。
家族の温かい笑顔を見つめながら、芳信は自身の油で汚れた右手をポケットの奥深くへと隠した。
『お父様、お母様、お兄様、お姉様。あなたたちがこの虚飾の平和を少しでも長く楽しめるように、僕は裏で泥を喰らい続けるよ』
前線の兵士を餓死させないための巨大な輸送機計画。
それは、精神論を美徳とする狂った軍部から兵士たちの命を力ずくで奪い返すための防衛線であり、同時にパトロンを操るための打算の産物でもあった。
華やかなワルツの旋律が流れる中、芳信の心の中ではすでに、凄惨な総力戦のエンジンがフルスロットルで咆哮を上げ始めていたのである。




