第32話 無条約の海と、銀色の運び手
昭和九年(一九三四年)十二月。
日本政府がアメリカに対し、ワシントン海軍軍縮条約の破棄を正式に通告したという重大なニュースが、世界中を駆け巡った。
これにより、列強の建艦競争を長年縛り付けていた枷は完全に外れ、世界は歯止めなき軍備拡張の時代、いわゆる「無条約時代」へと突入することとなる。
大艦巨砲主義を信奉する海軍の将官たちは、長年の不平等な条約から解放されたとばかりに、何万トンもの巨大戦艦の設計図を広げて狂喜乱舞していた。
だが、そんな軍国主義の熱狂を、まるで氷のように冷ややかに見つめる若者がいた。
九条芳信、十六歳。
彼は川崎に広がる九条自動車工業の巨大なテストハンガーで、完成したばかりの巨大な機体を腕組みをして見上げていた。
「芳信。条約破棄の報を聞いた軍令部の爺共は、これで我が世の春が来たとばかりに浮かれているぞ」
海軍の軍服に身を包んだ神崎中佐が、複雑な表情でハンガーへと足を踏み入れた。
「海軍の予算は、新型戦艦の建造に湯水のように注ぎ込まれるだろう。お前が心血を注いだこの大型輸送機の量産計画も、割を食うことになりそうだ」
神崎の言葉に、芳信は小さく鼻で笑った。
「巨大な戦艦など、的にされるだけの鉄の無駄遣いです。あれは海の底に沈むために造られる、世界で最も高価な棺桶に過ぎない」
芳信の冷徹な断言に、神崎は周囲を気にするように顔をしかめた。
「……お前は相変わらず、恐ろしいことを平然と言うな」
「事実です。これからの戦争の主役は、大砲ではなく空とロジスティクスだ。……おやっさん、例の機体のタラップを下ろしてくれ」
芳信の指示で、工場の生産統括である黒木伝蔵がウインチを操作する。
照明に照らし出されたのは、戦闘機のような無骨な武装を持たない、銀色に輝く巨大な双発の航空機だった。
流体力学を極限まで追求した流麗な低翼単葉の機体には、芳信が設計した高出力の液冷V型十二気筒エンジンが左右の主翼に一基ずつ搭載されている。
「九四式大型輸送機、通称『白鳥』。これが、この国の命運を繋ぐための『銀色の運び手』です」
芳信は機体の美しいアルミ合金の肌を撫でながら、神崎に向かって口を開いた。
「この機体は、完全武装の兵士三十名、あるいはそれに匹敵する物資を積み込み、絶海の孤島までノンストップで飛行することができます。海が敵の潜水艦に封鎖されても、空から前線の兵士に食糧と弾薬を送り届けることができる」
「しかし芳信、軍令部は輸送機よりも爆撃機を求めているのだ。兵士に飯を食わせるだけの飛行機に、莫大な予算は出せないと……」
「飯が食えなければ、兵士は戦う前に死ぬんです」
芳信の声が、ハンガーの中に鋭く響き渡った。
「僕の『白鳥』は、爆撃機にも戦闘機にもなれない。だが、この機体が千機あれば、何十万という兵士が餓死せずに生きて祖国へ帰ることができる。神崎中佐、あなたは海軍の未来を担う将校として、巨大な大砲と兵士の命、どちらが本当に国を守る力になるか、理解しているはずだ」
その真摯で、狂気すら孕んだ眼差しに、神崎は押し黙るしかなかった。
芳信は前世の記憶の中で、南方のジャングルで補給を絶たれ、飢えと病で死んでいった無数の日本兵の惨状を知っている。
大艦巨砲主義という古い幻影にすがりつく軍上層部の愚かさを、打算と技術の力でねじ伏せなければ、この国は再びあの凄惨な地獄を味わうことになる。
「予算の心配は要りません。生産ラインの構築と初期ロットの製造費用は、三菱の岩崎社長と、西條の義父上が全額負担してくれます」
芳信は静かに、しかし絶対的な自信を持って告げた。
「僕たちはすでに、軍の予算に頼らなくても戦争の兵站を支配できるシステムを作り上げている。海軍はただ、完成した機体を受け取り、パイロットを乗せるだけでいいんです」
神崎は、目の前の十六歳の少年が、すでに一国の軍隊を遥かに凌駕する権力とシステムを構築している事実に、背筋が凍る思いだった。
数日後の夜、九条本邸。
芳信は久しぶりに家族との夕食の席についていた。
食卓には、父の正和、母の静子、そして美しく成長した姉の華子が揃っている。
「芳信、今度の新しい飛行機は、爆弾を落とさない飛行機なのだってね」
華子が、少しだけ安堵したような表情で芳信に話しかけた。
「お母様から聞いたわ。遠くの兵隊さんたちに、ご飯やお薬を運ぶための、真っ白で大きな鳥のような飛行機だと」
「ええ、お姉様。名前も『白鳥』と言います。とても大きくて、静かに空を飛ぶ機体ですよ」
芳信は姉の無邪気な言葉に、優しく微笑み返した。
「まあ、それは素晴らしいわね。あなたが造るものはいつも恐ろしい兵器ばかりだったけれど、今度の飛行機は、人の命を救うためのものなのね」
静子もまた、嬉しそうに頷いている。
芳信は、純粋に喜ぶ母と姉の顔を見つめながら、胸の奥に鉛のような重さを感じていた。
確かに『白鳥』は、直接人を殺すための機械ではない。
だが、この輸送機が完成し、空の兵站網が確立されるということは、軍部が「さらに遠くの戦場」へと兵を進めることを可能にしてしまうという、残酷なパラドックスを抱えていた。
兵士を餓死から救うための機械が、結果的に泥沼の戦争を長引かせ、戦線を拡大させるための心臓部として機能してしまう。
芳信は、自分が家族に優しい嘘をつきながら、どれほど業の深い泥を被っているかを痛感していた。
「ええ、お母様、お姉様。この『白鳥』が空を飛んでいる限り、誰一人として飢えることはありません」
芳信は食卓の下で、自身の右手を強く握り締めた。
「いつか、戦争が終わったら、この輸送機の座席をふかふかのソファに替えて、みんなで世界中を旅行しましょう。窓から見える雲の海は、きっととても綺麗ですよ」
「本当に? 約束よ、芳信」
華子が目を輝かせて微笑む。
「ああ、約束するよ」
芳信はその眩しい笑顔を脳裏に焼き付けた。
この家族の笑顔と、未来の平和な空を守るためならば、自分はどれほど手を血と油に染めても構わない。
深夜、自室に戻った芳信は、窓辺に立って冷たい冬の夜空を見上げた。
時代は昭和九年。
ワシントン条約という重石が外れ、世界は確実に破滅的な総力戦へと加速している。
軍部の狂気、財閥の野心、そして芳信自身の打算。
それらすべてを飲み込んだ時代という巨大なエンジンは、もはや誰にも止めることのできない領域で回転を続けている。
「……マシな敗戦まで、あと何手だ」
芳信は結露した窓ガラスに指で軌跡を描きながら、孤独な戦いのロードマップをなぞった。
空には、冷たい星が不吉な瞬きを放っている。
日本の空を銀色の白鳥が覆い尽くす日を夢見ながら、芳信は歴史の闇へと向かって、さらに深くアクセルを踏み込むのであった。




