第30話 孤立する帝国と、量産の壁
昭和八年(一九三三年)二月。
スイスのジュネーブから打電された一本のニュースが、帝都・東京を重苦しい熱狂で包み込んだ。
国際連盟総会において、満州国建国を否認する勧告案が可決され、それに抗議した日本全権代表団が議場を退場したのである。
それは、大日本帝国が国際社会から完全に孤立し、自ら修羅の道へと踏み出したことを意味する歴史的な瞬間であった。
五・一五事件の凶弾から九条芳信の造り上げた漆黒のセダンによって命を救われ、奇跡的に政権を維持していた若槻礼次郎は、首相官邸の執務室で深く頭を抱えていた。
芳信という「盾」を得て軍部の物理的な暴力からは身を守れたものの、熱狂する世論と軍部の膨張といううねりそのものを、政治の力で押しとどめることは不可能だった。
「結局、私はあの少年の言う通り、軍の暴走に対する単なる防波堤にしかなれなかったというわけか」
若槻は、テーブルの上に置かれた号外の束を睨みつけながら、己の無力さに唇を噛み締めた。
国際的な孤立は、やがて来る巨大な工業国・アメリカとの全面衝突へのカウントダウンに他ならない。
その絶望的な未来のステアリングは、もはや政府ではなく、川崎の巨大な工場に引きこもる十三歳の少年の手に完全に握られていたのである。
同じ頃、川崎の九条自動車工業・メインプラント。
軍需景気に沸く世間の喧騒をよそに、テストハンガーの中には張り詰めたような空気が漂っていた。
全金属製・液冷エンジン搭載の新型戦闘機は、テスト飛行で圧倒的な性能を見せつけ、海軍から莫大な数の正式発注を受けていた。
だが、芳信の表情は険しいままだった。
「おやっさん。この三番シリンダーの歩留まりの悪さはどういうことだ。これじゃあ、月産五十機どころか、十機も組み上がらないじゃないか」
芳信は不良品として弾かれたシリンダーブロックを指差し、黒木伝蔵を鋭く問い詰めた。
「若、無茶を言わねえでくれ。あの複雑な冷却水路を持ったV型十二気筒を、現場の職人の手作業に頼って鋳造してるんだ。熟練の勘があっても、どうしてもスが入りやすくなる」
油にまみれた黒木が、悔しそうに頭を掻きむしった。
芳信が設計した液冷エンジンは、当時の日本の未成熟な工業力からすれば、オーパーツに等しい精密機械である。
一品モノの試作機ならば熟練工の神業で形にできても、それを同じ精度で大量生産するとなると、技術の壁が残酷なほどに立ちはだかった。
「職人の勘に頼るからダメなんだ。すべての工程を数値化しろ。鋳型の温度、流し込む合金の速度、すべてを固定する専用の『治具』を徹底的に造り直すんだ」
芳信の言葉に、傍らで報告を聞いていた海軍の神崎少佐が苛立ちを露わにした。
「九条。治具の設計からやり直すなど、どれだけ時間がかかると思っている。国際連盟を脱退した今、いつ列強との戦争が始まるか分からないのだぞ。空冷エンジンに妥協して、生産速度を上げるわけにはいかないのか」
神崎の焦りはもっともであった。
空冷エンジンであれば構造が単純であり、多少の工作精度のブレがあっても生産は容易である。
だが、芳信は一切の妥協を許さなかった。
「空冷に逃げれば、機首の空気抵抗が増大し、重い防弾鋼板を積んだままでは速度が落ちます。速度が落ちれば、パイロットの生存率は劇的に下がる」
芳信は神崎を真っ向から睨み据えた。
「僕は兵士を使い捨ての弾丸にするための機械は造らない。それに、世界を敵に回すのなら、これからは兵器の性能以上に『補給と生産』の効率が勝敗を分けるんです。職人芸を捨て、機械が機械を正確に造るシステムを完成させなければ、アメリカの物量には絶対に勝てない」
芳信の眼差しには、前世の記憶で見た「工業力の差で押し潰される祖国」の惨状への恐怖が焼き付いていた。
神崎はその凄みに気圧され、言葉を飲み込むしかなかった。
「西條財閥の製鋼所に連絡だ。工作機械の刃先を強化するために、タングステン鋼の供給量を倍に引き上げるよう要求しろ」
芳信は休む間もなく次の指示を飛ばす。
世界から孤立していく中で、国内の資源と生産力を極限まで効率化する。
それは、避けられない凄惨な戦争において、自国が払う血の代償を少しでも減らすための、芳信なりの狂気じみた防衛戦であった。
深夜の九条本邸。
疲れ果てて帰宅した芳信を、乳母のお菊が温かい夜食を用意して出迎えた。
「坊ちゃま。今日はお顔の色が優れませんね。また、難しい機械のことで頭を悩ませておいでですか」
「……うん。僕の描いた図面通りに、世界が動いてくれないんだよ、お菊」
芳信は湯気の立つお粥を見つめながら、ぽつりと弱音をこぼした。
図面上の理想と、現実の工業力との絶望的なギャップ。
いくら未来の知識があっても、それを形にするための「手」が足りないという現実に、芳信は一人で押し潰されそうになっていた。
「坊ちゃまは、いつも遠くばかりを見ておいでですから」
お菊は芳信の背中を優しく撫でた。
「急いで走れば、転んでしまうこともあります。坊ちゃまが造りたいものは、焦って造らなくても、いつかきっと形になりますよ」
お菊の言葉は、何も知らないゆえの無邪気な慰めに過ぎなかった。
しかし、芳信にとってはその温もりだけが、自分が人間であることを繋ぎ止める唯一の錨であった。
「……そうだね。焦っても仕方がない。土台から造り直すしかないんだ」
芳信はお粥を一口食べ、小さく息を吐いた。
孤立を深める帝国。
その閉ざされた国の中で、天才少年の孤独な戦いは、さらに深く、暗い領域へと足を踏み入れていくのであった。




