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オーバー・レブ・ヒストリー 〜車を愛し過ぎた少年の国家魔改造録〜  作者: tky@3作品同時連載中
第3章:圧倒的な物量と鉄壁の防衛網

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第27話 空を統べるための打算

昭和七年(一九三二年)一月。


川崎にそびえ立つ九条自動車工業の極秘テスト棟からは、耳をつんざくような凄まじい爆音が連日響き渡っていた。


分厚い防音硝子で隔てられた計測室の中で、九条芳信は計器の針を油に塗れた指で弾き、小さく舌打ちをした。


「おやっさん、三番シリンダーの温度が高すぎる。ウォータージャケットの冷却水路の設計、少し絞りすぎたかな」


「若、これ以上水路を広げたら、シリンダーブロックの強度がもたねえぞ。今の冶金技術じゃ、この薄さが限界だ」


工場の生産統括であり、現場の頂点に立つ職人である黒木伝蔵が、汗を拭いながら唸り声を上げた。


テストベンチの上で猛烈な熱を放ちながら回転しているのは、芳信が設計した新型の液冷V型十二気筒エンジンだった。


陸軍が満州で華々しい戦果を挙げている中、焦りを見せる海軍を繋ぎ止めるために、芳信が提示した「次世代の心臓」である。


前世の記憶を持つ芳信は、後に日本の航空機開発が空冷エンジン偏重に陥り、機体の空気抵抗の増大と高高度性能の不足に苦しむ歴史を知っていた。


だからこそ、空気抵抗を極限まで減らせる流線型の機首を実現するために、あえて構造が複雑な液冷エンジンにこだわっているのである。


『本当なら、こんな馬鹿でかいV型十二気筒エンジンなんて、二人乗りの流麗なグランドツーリングカーにでも積んで、海岸線をぶっ飛ばしたいんだけどね』


芳信は燃え盛るような熱気を放つ鉄の塊を見つめながら、内心で深くため息をついた。


「材料が限界なら、材料そのものを変えよう。西條の義父上に連絡して、クロムとニッケルの配合比率を変えた新しい特殊鋼を焼かせる。図面は僕が引き直すよ」


「また西條の旦那を動かす気か。若、あんたの頭ん中には一体どれだけの未来が詰まってやがるんだ」


黒木は呆れたように笑いながら、作業員たちにエンジンの停止を指示した。


そこへ、海軍の軍服に身を包んだ神崎少佐が、焦燥感を隠しきれない足取りで計測室へと入ってきた。


「芳信、エンジンの開発は難航しているようだな。軍令部の上層部は、未だに空母より戦艦の主砲を頼りにしている老害ばかりだ。早く目に見える成果を出さなければ、予算を陸軍にすべて持っていかれるぞ」


神崎の言葉には、陸軍の『ガーディアン』が活躍すればするほど、相対的に海軍の立場が弱くなっていくという強烈な危機感があった。


芳信は振り返り、十三歳という年齢にそぐわない冷徹な視線で神崎を見据えた。


「焦らないでください、神崎少佐。僕が造っているのは、時代遅れの戦艦を海の底へ沈めるための『翼』です。鉄の棺桶にカネをかけるくらいなら、僕のエンジンに投資するよう、上層部を説き伏せてください」


「戦艦を鉄の棺桶だと……? 貴様、海軍の中枢でそんな口を利けば、無事では済まんぞ」


「事実でしょう。これからの戦争は、大砲の射程距離ではなく、航空機の航続距離で決まる。僕が造る全金属製単葉機は、太平洋のパワーバランスそのものを書き換えます。そのためには、絶対にこの液冷エンジンが必要なんです」


芳信の揺るぎない断言に、神崎は息を呑んだ。


この少年の目は、目先の予算や手柄など見ていない。


もっと遠い、誰も見たことのない恐ろしい未来の戦場を、はっきりと見透かしているようだった。


「……分かった。軍令部は私が何とかしよう。だが、九条。お前のその予言が外れた時、我々は共倒れだぞ」


神崎が去っていった後、芳信は再び防音硝子越しにテストベンチのエンジンを見つめた。


芳信の頭の中にあるのは、敵の戦艦を沈めることでも、海軍に恩を売ることでもなかった。


彼が本当に恐れているのは、やがて来るであろう巨大な工業国家との絶望的な総力戦である。


あの圧倒的な物量に押し潰される未来を、少しでもマシな形に軌道修正するためには、パイロットの生還率を高める防弾装甲と、それを積んでもなお空を支配できる高出力エンジンが不可欠だった。


その日の夕暮れ。


芳信は高等科の制服を着た兄・秀一と共に、川崎工場の屋上に立っていた。


夕焼けに染まる帝都の空を、一機の古い複葉機がパタパタと頼りない音を立てて飛んでいく。


「芳信。この前お前が言った『敗戦』という言葉が、どうしても頭から離れないんだ」


秀一は夕空を見上げたまま、静かに、しかし複雑な色が混じった声で切り出した。


「……正直に言って、今の僕にはお前の言葉が信じられない。新聞を見ろ、どこもかしこも勝った、勝ったの大合唱だ。軍は精強で、国民もそれを支持している。なのに、なぜお前はそんなに悲観的なんだ? まるで、結末を見てきたような言い方じゃないか」


歴史を知らない秀一にとって、飛ぶ鳥を落とす勢いの大日本帝国が瓦解するなど、悪い冗談にしか聞こえない。


秀一の疑念は、この時代を生きる人間として極めて真っ当な反応だった。


芳信は表情を変えず、ただ冷たい風を頬に受けた。


「兄さん、日本の工業力じゃ、世界を相手に最後まで勝ち続けることなんて絶対に不可能なんだよ。精神論でエンジンは回らないし、大和魂じゃ装甲板は撃ち抜けない」


「お前の技術があるじゃないか! 満州の『ガーディアン』を見ろ、他国を圧倒している。お前がその手で、不可能を可能にしているんだろう?」


秀一がすがるような思いで弟の肩を掴んだ。


芳信はその手を優しく、しかし確固たる力で振り解いた。


「僕一人の技術で、国家の物量差を埋めることはできない。僕にできるのは、ブレーキを踏んでこの国を止めることじゃないんだ。もう、この車体は坂道を転がり始めている」


芳信は夕闇に沈む巨大な工場群を指さした。


「僕の造る機械で軍の主導権を握り、少しでも作戦を合理的なものに変える。一人でも多くの兵士を生きて祖国に帰す。それが、最低最悪の敗戦を、マシな敗戦に変える唯一の手段なんだ」


秀一は弟の言葉を咀嚼しようとしたが、すぐには飲み込めなかった。


連戦連勝に沸く現状と、弟が予言する凄惨な敗北のビジョン。


歴史の結末を知らない秀一にとって、それはやはり突飛で受け入れがたいものだった。


「……芳信。お前が天才だということは分かっている。お前のその頭脳が、世界の工業力や国力差を計算して『勝てない』と弾き出したなら、そういう恐ろしい可能性もあるのだろう」


秀一は夕風に吹かれながら、複雑な表情で弟を見つめた。


「だが、どうしても信じきれない。この国がそこまで愚かに破滅へと向かうとは、私には思えないんだ」


「それでいいよ、兄さん」


芳信は、疑念を隠さない兄の反応にむしろ安堵したように、少しだけ表情を緩めた。


「僕の描く最悪のシミュレーションなんて、信じない方がまともだ。だから……」


芳信は努めて穏やかなトーンで続けた。


「だからこそ、兄さんは希望の未来を見据えて、西條の雪子さんとの縁談を大切にしてほしいんだ。僕らの背後を固めるためには、西條財閥との絆がどうしても必要になる。これは九条家にとっても、僕の計画にとっても、何よりの支えになるんだから」


自分が人殺しの道具を造り続ける一方で、兄には真っ当な幸福と光を見ていてほしいという、芳信なりの不器用な情愛であった。


「……ああ。お前の言葉が杞憂に終わることを祈っているよ。だが、お前がその『万が一の破滅』に備えるというのなら、私は協力を惜しむつもりはない」


秀一は力強く頷き、弟の細い肩に手を置いた。


「ありがとう、兄さん」


芳信は、年齢に不釣合いな優しい微笑みを向けた。


本邸に戻ると、乳母のお菊がいつものように温かいお湯を用意して待っていた。


芳信が右手を洗面器に浸すと、お菊が優しくその指先を洗い始める。


「坊ちゃま、今日も一段と油の匂いがきついですねえ。ずいぶんと大きな機械を造っておられるのですか?」


「ああ、とても大きくて、うるさい機械だよ。ちっとも美しくないし、静かでもない。お姉様が嫌がるような、鉄の塊さ」


芳信の言葉には、隠しきれない疲労と自嘲が混じっていた。


お菊は芳信の右手をタオルで丁寧に拭きながら、穏やかな微笑みを向けた。


「でも、坊ちゃまが造るものは、いつだって誰かの役に立っているのでしょう? 坊ちゃまの手は、油で汚れていても、とても優しい手ですから」


その言葉は、芳信が背負う重い十字架を、ほんの少しだけ軽くしてくれた。


「ありがとう、お菊。いつか必ず……平和な道を静かに走る、最高に美しい車を造ってみせるよ。その時は、お菊も一番に乗せてあげるからね」


「ふふ、それは楽しみにしておりますよ。坊ちゃまのことですから、きっとあっという間に造ってしまうのでしょうね」


芳信は自室のベッドに寝転がり、天井を見上げた。


時代は昭和七年。


世界は確実に、暗く冷たい戦争の時代へと突き進んでいる。


だが、九条芳信という特異点が造り出した鋼鉄の心臓は、確実に歴史の軌道を僅かずつ歪ませていた。


泥濘を喰らう鉄獣が大地を支配し、空を統べるための銀翼が産声を上げようとしている。


芳信は静かに目を閉じ、明日もまた、打算と狂気のステアリングを握り続ける覚悟を固めるのであった。

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