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オーバー・レブ・ヒストリー 〜車を愛し過ぎた少年の国家魔改造録〜  作者: tky@3作品同時連載中
第3章:圧倒的な物量と鉄壁の防衛網

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第26話 鋼鉄の鳴動、銀翼の胎動

昭和六年(一九三一年)十一月。


満州の荒野には、切り裂くような北風が吹き荒れていた。


奉天を拠点とした関東軍の進撃は止まる所を知らず、戦線は北へ、さらに北へと伸び続けている。


この広大な大地において、近代戦の勝敗を決するのはもはや勇猛果敢な突撃ではない。


それは、どれだけ迅速に、どれだけ大量の物資を前線へ送り届けられるかという「補給」の勝負へと変貌していた。


馬を主体とした旧来の輜重部隊が泥濘と寒気に足を取られて立ち往生する中、ただ一つ、不気味なほどの効率で戦場を疾走する集団があった。


進藤少佐率いる、九条製八輪独立懸架装装甲車『ガーディアン』を擁する独立機械化大隊である。


「……化け物め」


泥にまみれ、疲労困憊で座り込んでいた陸軍の一般歩兵が、道なき道を嘲笑うかのように踏破していく巨大な鉄の塊を見上げて、畏怖の念とともにこぼした言葉だった。


その車内の指揮官席に座る進藤少佐は、揺れの少ない『ガーディアン』の乗り心地に酔いしれていた。


「九条の言う通りだったな」


進藤は傍らに置かれた無線機から流れる、前線部隊の悲鳴と歓喜が混ざり合った報告を聞きながら独りごちた。


「ブレーキの壊れたこの国を牽引するのは、もはや無謀な精神論ではない。九条の造り上げたこの鋼鉄の心臓だ」


一方で、帝都・東京に隣接する京浜工業地帯の中核、川崎。


そこに広がる九条自動車工業のメインプラントは、不眠不休のフル稼働を続けていた。


工場のゲートからは、カーキ色に塗装された車両が次から次へと吐き出されていく。


その様子を、工場の全生産ラインを統括するために屋上に新設された防音硝子張りの総帥室、通称『司令室』の窓際から見下ろしている少年がいた。


九条芳信、十三歳。


彼の視線は、眼下の成功には止まっていない。


芳信の手元には、陸軍から届いたばかりの「恩賞」とも言える莫大な追加発注書と、それとは対照的な、海軍の神崎少佐から寄せられた一通の極秘電文があった。


『大陸の戦果、聞き及んでいる。だが芳信、我々の「翼」の進捗はどうなっている。陸軍の泥遊びを眺めているほど、海には時間が残されていないぞ』


芳信は電文を丸めると、学習院高等科の制服姿のまま傍らに立っている兄・秀一に目を向けた。


秀一は、学業を修める傍ら、放課後は次期当主として政財界との折衝に奔走しており、今日も西條財閥との会合の帰りに工場へ立ち寄っていたのである。


「兄さん、陸軍が僕の車を手に入れたことで、彼らの発言力は政府を完全に凌駕した。若槻首相の嘆きも、もはや街の騒音と変わらない」


「……ああ。西條の義父上も仰っていたよ。今や『九条の推薦』がなければ、陸軍の装備計画は一行も進まないとね」


秀一の声には、弟が手にした権力への、隠しきれない危惧が混じっていた。


だが、芳信は窓の外を指さした。


「でも、それは僕が本当に求めている力じゃないんだ」


「何だと?」


「陸軍の車両は、あくまでこの国を『マシな敗戦』へ導くための、最低限のステアリングでしかない。僕が本当にこの狂った時代の機首を曲げたいなら……空を獲らなきゃダメなんだ」


「敗戦だと……? 芳信、お前は一体、何を見ているんだ。我が国は今、大陸で連戦連勝で……」


秀一は信じられないものを見るような目で弟を見つめ、言葉を失った。


世間が戦勝に沸き立つ中、この天才の弟だけが、すでにこの国の破滅的な結末を確信して動いているという事実に、背筋が凍るような恐怖を覚えたのである。


秀一の動揺をよそに、芳信は机の上の図面を広げた。


そこには、排気タービンによる過給機スーパーチャージャーを搭載した、新型液冷エンジンの構想図が描かれていた。


「三菱、西條、そして中島飛行機の創業者である中島知久平氏。この三者を繋ぐ新しい航空コンソーシアムを立ち上げる」


「芳信、お前は……海軍と陸軍の垣根を取り払うということか?」


「垣根なんて、壊してしまえばいい。九条のエンジンを積まなければ空を飛べない状況を作れば、彼らは嫌でも握手する」


芳信の言葉は、打算に満ちていた。


だが、その瞳の奥には、前世の記憶に刻まれたパイロットたちの悲劇を回避し、少しでも多くの命を救おうとする、誰にも理解されない孤独な決意が宿っていた。


その夜。


芳信は久々に九条の本邸へと戻った。


工場の油の匂いを洗い流すため、乳母のお菊が用意した風呂に浸かる。


「坊ちゃま、またお痩せになりましたか?」


風呂上がりの芳信の体をタオルで拭いながら、お菊が心配そうに尋ねる。


「そうかな。お菊の作るお粥でも食べれば、すぐ元に戻るよ」


芳信は鏡に映る、自分自身の幼い体を見つめた。


この細い腕で、歴史という名の巨大な車輪を回し続けなければならない。


「坊ちゃま、華子様がお待ちですよ。今夜は、新しいピアノの曲が仕上がったとかで」


お菊の言葉に、芳信の表情がわずかに和らいだ。


居間へ向かうと、そこには月明かりを背に、ピアノの前に座る姉・華子の姿があった。


彼女が弾き始めた旋律は、激動の時代とは無縁のような、静かで、どこか物悲しい小曲だった。


芳信は黙ってその音に耳を傾けた。


曲が終わると、華子は振り返り、寂しげな微笑を浮かべた。


「芳信、あなたの周りには、いつもたくさんの『音』が響いているけれど、最近はそのどれもが、悲鳴を上げている鉄の音に聞こえるの」


華子の澄んだ瞳が、芳信の心の深淵を覗き込むように向けられる。


彼女は知っているのだ。


弟が造る「機械」が、単なる富や名声のためではなく、何か恐ろしいものから逃れるため、あるいは何かをねじ伏せるために生み出されていることを。


芳信は一瞬、息を詰めた。


前世の記憶に焼き付いた「黒焦げの都市」や「泥に埋まった兵士の残骸」が、旋律の合間にフラッシュバックする。


本心を言えば、今すぐにでも兵器生産など放り出し、自分が心底愛する「走る芸術品」の開発に没頭したい。


流麗な曲線を持つクーペ、極上の革で設えられた贅沢な内装、静寂そのものを形にしたようなエンジン。


だが、そんな趣味の極致を謳歌できる「平和」という基盤自体が、数年後には跡形もなく消え去ることを彼は知っている。


芳信は無理やり口角を上げ、姉を不安にさせないための、最も甘美で残酷な「嘘」を吐いた。


「……お姉様。この国の道がまだ泥だらけで、戦地に向かう車しか求められていないのは、僕が一番よく分かっている。でもね、僕が本当に造りたいのは、そんな無骨なものじゃないんだ」


芳信は華子の隣に座り、鍵盤に触れないように、油の匂いが染み付いた自分の手を見つめた。


「いつか、お姉様が弾くようなこの穏やかな旋律に、ふさわしい車を造るよ。音もなく夜の街を滑る、最高級のセダンだ」


それは半分は本音だった。


己の欲望の結晶である車を、平和な世界で走らせたい。


だが、もう半分は、姉を安心させ、自分自身の正気を保つための計算だった。


「僕はね、お姉様を安心させるために、そして僕自身の『技術者としての誇り』を捨てないために、その車を造ることを目標にしているんだ。だから、今の仕事はそのための準備……いわば、趣味と実益を兼ねた退屈な下準備に過ぎないんだよ」


「……まあ。あなたは相変わらず、理屈っぽいこと」


華子はクスリと笑ったが、その瞳の奥には、弟が抱える「何かを誤魔化しているような危うさ」を案ずる色が残っていた。


「ええ。あなたが本当に造りたいのは、そんな優しい車なのでしょう? 私は信じているわ。いつか、私をその助手席に乗せてくれる日を」


「もちろんだよ、お姉様」


芳信は微笑みを返しながら、胸の奥で冷徹に計算していた。


『その車を造るためには、まず大陸の利権を確保し、アメリカの工業力に対抗できるだけの航空機産業を確立し、政府の喉首を完全に押さえなければならない。……お姉様。あなたが平和にピアノを弾き続け、僕が趣味の車を造る時間を手に入れるために、僕はあと何度、人殺しの道具を設計すればいいんだろうね』


慈愛に満ちた姉の視線が、今の芳信には灼熱の炎よりも熱く、重く感じられた。


翌朝。


芳信は再び川崎の工場へと戻った。


そこには、海軍の神崎少佐、そして三菱の技術者たちが、極秘の木製モックアップを囲んで待っていた。


芳信が彼らに見せたのは、当時としては異例の全金属製、引き込み脚、そしてパイロットを守る防弾鋼板を多用した、次世代戦闘機の構想だった。


「九条君、これは……本当に飛ぶのか? この流線形は、まるで生き物ではないか」


三菱の設計主幹が、震える手で木型をなでる。


「飛びますよ。僕の造るエンジンがあれば、重い防弾鋼板を積んでも、音の壁すらもいつかは超えてみせる」


芳信は冷徹な技術者の顔に戻り、指示を飛ばし始めた。


「神崎少佐、海軍はこの機体を単なる『艦上戦闘機』として見てはいけない。これは、歴史の趨勢を覆すための『翼』になる」


満州の泥濘で、九条の造った足が兵士の命を繋いでいる間に。


川崎の工場では、次なる時代の「翼」が産声を上げようとしていた。


軍の暴走、財閥の野心、そして政治の混乱。


それらすべてを潤滑油として飲み込みながら、時代という名の巨大な機構は、制御不能なフルスロットルで回転を始めていた。


芳信は、咆哮を上げる運命のステアリングを握り直すように、自身の震える右手を強く握り締めた。


「……さあ、空を獲りに行こうか」


その一言とともに、日本の航空史が、決定的な分岐点を通過しようとしていたのである。

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