第25話 泥濘を喰らう鉄獣
昭和六年(一九三一年)九月十九日未明。
満州の柳条湖において、南満州鉄道の線路が爆破されたという凶報が帝都の闇を切り裂いた。
再び内閣総理大臣となった若槻礼次郎は、首相官邸の執務室で陸軍省から叩きつけられた急報を震える手で握りしめていた。
関東軍の独断専行。
政府が最も恐れていた事態がついに現実のものとなったのである。
若槻の脳裏に真っ先に浮かんだのは、満州の地図ではなく、学習院中等科の制服を身に纏った十三歳の少年の顔だった。
「軍の暴走を止める手立てがない以上、あの怪物の造る機械に頼るしかないというのか」
若槻は疲労が深く刻まれた顔を歪め、力なく呟いた。
かつて内務大臣だった頃、あの少年の提案する『道路特定財源』という劇薬を呑んだのは若槻自身だ。
総理の座に返り咲き、再び国家の舵取りを任された今、日本という国が『九条芳信』という巨大なエンジンのための歯車に成り下がってしまったことを、痛いほどに理解させられていた。
同日午前七時。
関東軍が奉天城を完全に制圧したという第一報は、川崎に広がる九条自動車工業のメインプラントにも届いていた。
非常事態の報を受けても、東洋最大の工場は微塵も動じることなく、規則正しく力強い機械音を脈動させている。
技術総帥たる九条芳信は、油に塗れた作業着姿のまま、最新鋭のライン生産設備を見下ろすキャットウォークに立っていた。
そこに、泥除けに真新しい土を跳ね上げた軍用車両がけたたましいスキール音とともに急停車する。
助手席から転がり出るように降りてきたのは、陸軍少佐の進藤拓也だった。
「九条、ついに奴らが動きやがったぞ」
進藤は軍服の乱れも気にせず、血走った目でキャットウォークの上の芳信を見上げた。
「関東軍が奉天を制圧した。これで我が軍の戦線は大陸の奥深くまで一気に拡大する」
そこにあるのは強大な力を分け与えられた共犯者の狂喜だった。
芳信はゆっくりと振り返り、手にしたウエスで右手の汚れを丁寧に拭いながら、静かに息を吐いた。
「予定通りだね、進藤少佐。だが、本当の正念場はここからだ」
芳信の瞳に、戦争特需に対する高揚感など微塵もなかった。
前世の記憶を持つ彼だけは、この熱狂の先にある、国土が焼け野原となる破滅的な敗戦の歴史を知っている。
無能な軍上層部が兵士を泥濘に沈め、無謀な精神論で国をすり潰していく未来。
それを少しでもマシな歴史に書き換えるためには、軍の喉首を完全に押さえるほどの絶対的な発言力が必要だった。
『こんな無骨なカーキ色の鉄の塊より、風を切り裂くスポーツカーや静粛な高級セダンを造りたかったがね』
内心でそう自嘲しながらも、芳信は誰にも悟られぬよう冷徹な技術者の顔を保った。
自分の好きな車を自由に造れる豊かな世界を未来に残すためにも、今は打算まみれの泥を被るしかない。
「第一陣として、見込み生産でストックしておいた八輪独立懸架装甲車『ガーディアン』五百両を直ちに大陸へ送る。泥濘で兵を犬死にさせたくないなら、補給線を維持することだ」
進藤はその言葉を聞き、少年の底知れない覚悟に背筋が凍るような畏怖を覚えた。
翌九月二十日。
朝鮮軍が中央の命令を待たずに独断で越境し、満州へと進撃を開始した。
事態が完全に政府の統制を離れていく中、帝都の最高級料亭では、巨大な資本を動かす男たちの密談が交わされていた。
三菱合資会社社長の岩崎小弥太と、西條財閥総帥の西條康隆侯爵である。
「軍部が勝手に暴れ回れば回るほど、前線は九条の提供する兵站網への依存度を高めていくというわけだ」
岩崎は豪快に笑い飛ばし、上質な酒がなみなみと注がれた杯を干した。
「あの少年は、大陸の厄介な泥濘すらも己のエンジンの潤滑油に変えてしまったようだな」
西條康隆もまた、冷徹な計算機のような頭脳が弾き出す莫大な利益の予測に、満足げな笑みを浮かべていた。
二人の巨大なパトロンにとって、満州事変すらも、航空機や燃料の独占権を確固たるものにするための壮大なビジネスチャンスに過ぎなかったのである。
九月下旬。
国内の新聞各紙が連日号外を出し、関東軍の連戦連勝を熱狂的に報じ始めた。
帝都の大通りを、大陸へと向かう『ガーディアン』の長い車列が地響きを立てて通り過ぎていく。
学習院女子部に通う九条華子は、自室の窓辺からその黒く巨大な鉄の列を見下ろし、自身の胸に手を当てて怯えるように呟いた。
「芳信の造った車が、たくさんの兵隊さんを乗せて、遠い戦争の場所へ走っていくわ」
純粋な彼女の目には、弟がもたらした技術の恩恵よりも、国家全体を巻き込んで加速していく狂気の歯車の音が恐ろしかった。
そんな世間の喧騒をよそに、九条家の大屋敷の奥深くにある芳信の私室だけは、奇妙なほど穏やかな静けさを保っていた。
工場から戻った芳信が中等科の制服に着替えていると、乳母のお菊が温かいお湯を張った洗面器を持って部屋に入ってきた。
「坊ちゃま、今日も右手に頑固な油が残っておりますよ」
お菊はいつものように慈愛に満ちた笑みを浮かべ、芳信の右手を優しく洗い始めた。
「お菊」
芳信は湯の中で汚れが落ちていく自分の手を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「本当はね、誰もが振り返るような美しいスポーツカーや、音もなく滑らかに走る最高級セダンを造りたいんだ。舗装された綺麗な道だけを走るようなやつをね」
軍の人間には決して見せない、年相応の子供のような素顔だった。
「臣、今はまだその時じゃない。いつかその車を自由に造るために、今は泥にまみれた鉄の塊で、この国という車体を強引に引っ張らなきゃいけないんだ」
お菊はその言葉の裏にある、彼が一人で抱え込んでいる歴史の重圧を知る由もなかったが、ただ深く優しく頷いた。
「ええ、いつかきっと、坊ちゃまの造りたかった美しい車が、平和な道を走る日が来ますとも。坊ちゃまは昔から、造りたいもののためには少しお急ぎになるだけですからね」
この絶対的な心の安全地帯があるからこそ、芳信は絶望的な未来のビジョンに押し潰されることなく、再びエンジンを限界まで回し続けることができるのだった。
昭和六年十月。
錦州に対する爆撃が行われ、航空機を用いた本格的な軍事作戦が展開された。
秋の長雨によって底なしの泥濘と化した満州の荒野を、進藤少佐が率いる独立機械化大隊が猛然と突き進んでいく。
旧式のフォード製トラックが泥に足を取られて車軸からへし折れ、無残に放置されている真横を『ガーディアン』は圧倒的なトルクで泥を空高く跳ね上げながら走破していった。
「見ろ、これが我らの足だ。兵の命を繋ぐ、九条の至高 of 技術だ」
進藤は無線越しに、狂喜の声を張り上げた。
『ガーディアン』は、味方の被害を最小限に抑えつつ、敵陣の反撃を完全に無力化していく。
空を見上げれば、海軍の新型単葉機が、芳信の設計した液冷V型十二気筒エンジンの甲高いエキゾーストノートを響かせていた。
同じ頃。
川崎工場の屋上から、芳信は兄の秀一と共に、夕闇に沈んでいく帝都の街並みを見下ろしていた。
「芳信、お前の造った機械が、この国を後戻りできない道へと引きずり込んでいるぞ」
秀一は隣に立つ弟に、強い覚悟を持って問いかけた。
「お前は本当に、この軍部の暴走の先で、国を守りきれるのか」
芳信は怜悧で大人びた瞳で、遠く満州の空へと続くであろう暗い地平線を真っ直ぐに睨みつけた。
「兄さん、戦争へ向かう国は、ブレーキじゃ止まらないんだ」
芳信は揺るぎない、冷酷なまでの確信を込めて断言した。
「だとしたら、僕が誰よりも強靭なステアリングを握って、マシな未来へ強引に曲がるしかない」
大正の泥濘から産声を上げた技術の怪物は、昭和の戦火という極上の燃料を得た。
自らの夢を一時封印し、歴史の悲劇を最小限に食い止めるという重い十字架を背負いながら。
さらなる未踏の領域へと、もはや誰にも止めることのできない鉄の咆哮を轟かせながら、全開で加速していくのである。




