第28話 摩天楼の砲声と、銀翼の初陣
昭和七年(一九三二年)一月二十八日。
華やかなネオンが瞬く国際都市・上海の夜空を、突如として無数の曳光弾が切り裂いた。
日中両軍による偶発的な武力衝突は瞬く間に拡大し、市街地全体を巻き込む激しい戦闘、のちに第一次上海事変と呼ばれる市街戦の幕開けとなったのである。
満州の荒野とは全く異なる、狭い路地と石造りの洋館が入り組む複雑な都市空間での戦闘。
史実のままならば、ここで軽装備の海軍陸戦隊は予想外の苦戦を強いられ、多大な犠牲を払うはずであった。
だが、九条芳信が介入したこの世界線の戦場は、すでに大きくその様相を変異させていたのである。
上海の市街地、共同租界の境界線付近。
迷路のような路地に、地響きを立てて突入していく鋼鉄の部隊があった。
進藤少佐の息がかかった、陸軍の独立機械化大隊から試験的に派遣された一箇中隊である。
彼らが駆る八輪独立懸架装甲車『ガーディアン』は、瓦礫の山を容易く乗り越え、建物の陰から放たれる機関銃の掃射をその分厚い傾斜装甲で次々と弾き返していく。
「止まるな。このまま敵の防衛線を食い破れ」
車長が怒号を飛ばし、車載された重機関銃が火を噴いた。
歩兵の盾となり、圧倒的な機動力で敵の側面を突く『ガーディアン』の制圧力は、複雑な市街地戦においてこそ真価を発揮していた。
泥濘の荒野だけでなく、コンクリートの摩天楼すらも喰らい尽くす九条の鉄獣は、前線の兵士たちにとって絶対的な守護神となっていたのである。
その数日後、帝都・東京に隣接する川崎。
九条自動車工業の司令室では、芳信が上海の市街地図と、前線から送られてくる『ガーディアン』の稼働データを照らし合わせていた。
「……装甲の被弾データを見る限り、やはり市街地での至近距離からの射撃は想定以上のダメージを与えているな。おやっさん、次回ロットから側面装甲の表面硬化処理をもう一段階上げよう」
「分かったぜ、若。だが、これ以上重くすると足回りにガタが来るぞ」
「サスペンションのスプリングレートも再計算する。兵士の生還率をここで下げるわけにはいかないからね」
芳信は淡々と指示を出しながら、図面に赤鉛筆で修正を書き込んでいった。
そこに、ひどく機嫌の悪い足音を立てて、海軍の神崎少佐が踏み込んできた。
「芳信。陸軍の装甲車が上海で随分と派手に暴れ回っているそうじゃないか。おかげで海軍の陸戦隊の影がすっかり薄くなっている」
神崎の顔には、手柄を陸軍に奪われた焦りと、軍令部からの凄まじいプレッシャーによる疲労が色濃く浮かんでいた。
芳信は図面から顔を上げ、冷徹な瞳で神崎を見据えた。
「だから言ったでしょう、神崎少佐。海軍の本来の戦場は、路地裏ではなく空と海だと。……おやっさん、例の機体をハンガーへ」
芳信の合図を受け、黒木が司令室の奥にある分厚いシャッターのボタンを押した。
重々しい機械音とともにシャッターが上がり、巨大なテストハンガーの内部が姿を現す。
神崎は、そこに鎮座している『それ』を見て、息を呑んだ。
照明に照らされ、銀色に鈍く光る全金属製の単葉機。
当時の航空機の常識であった無骨な複葉機とは全く異なる、流体力学の極致とも言える流麗なシルエットを持っていた。
「九二式試作液冷単葉戦闘機。……僕が設計した、新時代の『翼』のプロトタイプです」
芳信はシャッターの前に立ち、眼下の機体を見つめた。
自らの空力理論を具現化した至高の芸術品を愛でるような技術者としての純粋な喜びと、これから無数の命を奪い、そして散っていくであろう呪われた兵器を値踏みするような冷徹さ。
芳信の瞳には、相反する二つの感情が複雑に入り混じっていた。
「機首には、クロムとニッケルの配合を見直した最新の液冷V型十二気筒エンジンを搭載しています。引き込み脚を採用し、空気抵抗を極限まで削ぎ落としました。そして何より、操縦席の背後と燃料タンクには、十分な厚みの防弾鋼板を備えています」
「防弾鋼板だと? 馬鹿な、そんな重いものを積んで、まともに空戦ができるはずがない」
神崎は常識的な海軍将校としての見解を口にした。
当時の航空機開発は、運動性能を極限まで高めるために、パイロットの命を守る防弾装備を徹底的に削ぎ落とすのがセオリーだったからである。
「それは、非力な空冷エンジンしか造れない人間たちの言い訳に過ぎません」
芳信は冷酷なまでに言い切った。
「パイロットは使い捨ての部品じゃない。彼らが生き残り、経験を積むことこそが、最も確実な戦力増強です。僕のエンジンは、防弾鋼板の重量など物ともせずに、敵機を置き去りにする速度を出してみせますよ」
その言葉には、前世の記憶の中で炎に包まれて落ちていった多くの若き命への哀悼と、同じ悲劇を二度と繰り返させないという強い執念が込められていた。
数日後の早朝、横須賀の海軍航空隊テスト飛行場。
冷たい海風が吹き抜ける中、九二式試作戦闘機の初飛行が行われようとしていた。
滑走路の脇には、神崎少佐をはじめとする海軍の要人たちと、三菱の技術陣、そして学生服の上に外套を羽織った芳信の姿があった。
テストパイロットがコックピットに収まり、スターターが回される。
キュルキュルという金属音に続いて、重低音の混じった甲高いエキゾーストノートが轟いた。
それは、これまでのどんな航空機とも違う、洗練された獣の咆哮だった。
「回転数、安定しています。……行きます」
テストパイロットの無線音声が響くと同時に、銀色の機体が滑走路を滑り出した。
驚異的な加速。
これほど重武装でありながら、機体はあっという間にふわりと宙に浮き上がり、そのまま弾丸のように冬の空へと吸い込まれていく。
「速い……。なんだあの速度は」
海軍の将官の一人が、双眼鏡を落とす勢いで驚愕の声を上げた。
機体は上空で軽快なロールを見せ、そのまま急降下に移る。
エンジンの爆音が風を切り裂き、ドップラー効果を伴って人々の鼓膜を震わせた。
それは紛れもなく、日本の航空技術が世界の頂点に手を掛けた瞬間であった。
「見たか、芳信。飛んだぞ。我々の翼が、ついに空を支配したんだ」
神崎が興奮に震えながら、芳信の肩を激しく揺さぶった。
だが、芳信は無邪気に喜ぶ大人たちをよそに、ただ空を見上げたまま静かに頷くだけだった。
『これで、あの絶望的な空戦の歴史を、ほんの少しだけ書き換えられる。一人でも多くのパイロットを、生きて帰すことができる』
芳信の内心の打算と呪いを知る由もなく、海軍の男たちは新しい兵器の誕生に狂喜乱舞していた。
その日の夜、九条本邸。
芳信は夕食後、自室の机で新たな図面を引いていた。
陸軍の装甲車、海軍の戦闘機。
国家を動かすための強靭なステアリングは、着実に完成しつつある。
だが、その一方で、若槻内閣に対する国内の不満、特に急進的な青年将校たちの不穏な動きが、芳信の耳にも届き始めていた。
芳信はふと図面から顔を上げ、傍らに置かれた一枚のスケッチを見つめた。
それは、装甲車でも戦闘機でもない。
長く美しいボンネットを持ち、流麗なフェンダーラインが車体後方へと優雅に流れていく、最高級セダンのスケッチだった。
「本当は、こういう車にだけ、僕の技術を使いたいんだけどね」
芳信は自嘲気味に呟きながら、そのセダンのドアパネルの断面図に、特殊な防弾素材を組み込むための計算式を書き加えていった。
姉の華子を安心させるための、美しく静かな車。
だが今の彼にできるのは、その美しい車体の中に、テロリストの凶弾を弾き返すための分厚い装甲を隠し持つ「走る要塞」を設計することだけだった。
悲劇の歴史を塗り替えるための、孤独な闘い。
時代は昭和七年、凶弾が乱れ飛ぶ五月に向けて、さらに暗く血生臭い影を落とし始めていたのである。




