第二十二話:暗黒の木曜日と、銀翼の狂気
昭和四年(一九二九年)十月。
世界を永遠の繁栄に導くと思われていた資本主義の心臓が、ついに音を立てて崩壊した。
米国・ニューヨークのウォール街で起きた株価の大暴落、のちに『暗黒の木曜日』と呼ばれるこの日を境に、世界は底なしの経済恐慌という泥濘へと引きずり込まれることとなる。
だが、この地球規模の絶望の波が極東の島国に本格的に到達する少し前。
帝都・東京の空は、別の熱狂に包まれていた。
同年八月、ドイツが誇る巨大飛行船「ツェッペリン伯号」が世界一周の途上で霞ヶ浦に飛来し、帝都の空を悠然と横切ったのである。
全長二三六メートルという空飛ぶ巨大な鯨を前に、新聞は号外を出し、人々は空を指差して「航空の時代」の到来に酔いしれた。
しかし、三菱財閥の総帥である岩崎小弥太は、川崎にある九条自動車工業の屋上からその熱狂の残滓を見下ろしながら、隣に立つ少年の底知れぬ狂気に戦慄していた。
「ツェッペリンなど、ただの鈍重なガス袋ですよ。あんなものは、風船の延長に過ぎない」
十一歳になった九条芳信は、冷たい海風に黒髪をなびかせながら、空への憧憬を鼻で笑った。
彼の眼下には、三菱の巨額の資本を投じて建設された、東洋一の規模を誇る川崎メインプラントが稼働の音を響かせている。
陸軍に正式採用された八輪装甲車『ガーディアン』と、民間用の新型トラックが、次々とラインから吐き出されていた。
「芳信君。君はあの巨大な飛行船が、いずれ兵器として帝都の空を脅かすとは思わないのかね?」
岩崎が問いかけると、芳信は薄い唇を歪めて振り返った。
「岩崎のおじさん。空気より軽い気体で浮き上がる乗り物は、図体が大きすぎて標的になるだけです。僕が創ろうとしているのは、空気よりも重い鉄の塊を、エンジンの暴力的なパワーだけで強引に空へ叩き上げる『本物の翼』ですよ」
芳信は懐から丸めた青写真の図面を取り出し、風に煽られないように屋上の手すりに広げた。
岩崎には、そこに描かれた複雑怪奇な機関の詳細は理解できないが、紙の上に引かれた緻密な線と、無駄を削ぎ落とした弾丸のようなフォルムからは、現在空を飛んでいる布張りの複葉機とは次元の違う「殺気」のようなものが放たれていることだけは、経営者の直感として鋭く察知できた。
「新開発、航空機用・液冷V型十二気筒エンジンです。自動車用のディーゼルで培った過給技術を極限まで引き上げ、空気の薄い高高度でも出力が落ちない化け物だ。これを、空気抵抗を極限まで減らした全金属製のモノコックボディに積む」
芳信が構想しているのは、流線型の銀色の槍が、音速に迫る速度で空を切り裂くような、数世代先の未来の戦闘機であった。
「君は……自動車で大地を制しただけでは飽き足らず、空の覇権まで握る気か」
「当たり前です。物流も、戦争も、これからは必ず空が主戦場になる。陸軍の進藤大尉にはすでに『空の機械化』の予算を握らせてあります。問題は、この高高度用エンジンを量産するための、莫大な工作機械の設備投資だ」
芳信は図面から顔を上げ、岩崎を真っ直ぐに射抜くような視線で見つめた。
その時、屋上の鉄扉が勢いよく開き、息を切らせた岩崎の秘書が駆け込んできた。
「社長! 大変です! 米国のウォール街で、株価が歴史的な大暴落を起こしました! ニューヨーク証券取引所はパニック状態、我が国の市場にも明日には致命的な連鎖反応が起きます!」
秘書の悲鳴のような報告に、岩崎の表情が険しく強張った。
一九二七年の昭和金融恐慌をやっとの思いで乗り越えた日本経済が、今度はアメリカ発の世界恐慌という超弩級の津波に飲み込まれようとしている。
財閥の総帥として、直ちに投資を縮小し、資産の防衛に走らなければならない致命的な危機であった。
「……芳信君。どうやら、世界は君の新しいおもちゃに投資している余裕はなくなったようだ」
岩崎が苦渋に満ちた声で言うと、芳信は少しも動揺することなく、むしろ心底愉快そうに声を上げて笑い出した。
「ふふっ……あははは! 素晴らしい! これで邪魔な古い企業がすべて焼け野原になる!」
「何が可笑しい! この恐慌は、君の九条自動車の売り上げにも大打撃を与えるんだぞ!」
岩崎の怒鳴り声にも、芳信の狂気じみた笑みは消えなかった。
彼は図面を手すりに押し付けたまま、眼下の帝都に向かって腕を広げた。
「岩崎のおじさん。僕は以前、不景気はただの『ロードテスト』だと言ったはずです。世界中が貧しくなり、資源の奪い合いが激化すれば、国家は必ず『暴力』にすがる。つまり、軍需です」
芳信の瞳の奥に、前世の記憶と、未来の歴史の残酷なロードマップが冷たい炎となって燃え上がっていた。
「恐慌が起きれば、国は国民の目を外に向けるために大陸への進出を加速させる。泥濘を走る無敵の装甲車と、敵の頭上から爆弾を落とせる高速の爆撃機が、喉から手が出るほど欲しくなる。……僕たちのエンジンは、恐慌になればなるほど高く売れるんですよ!」
岩崎は、目の前の少年が放つ悪魔的なまでの合理性と、歴史の必然を見透かしたような言葉に、全身の血が凍るような恐怖を覚えた。
この少年は、世界中の人々が涙を流して絶望する大恐慌さえも、自分の創る機械を空へ飛ばすための「最高の追い風」だと本気で信じているのだ。
「芳信君……君は、本当に人間なのか?」
「僕は、ただの機械好きですよ。自分の創るエンジンが、誰よりも速く、高く飛ぶのを見たいだけだ」
芳信は一歩岩崎に近づき、小さな手を差し出した。
「三菱の資本をすべて、僕の航空機部門に突っ込んでください。恐慌で世界が立ち止まっている今こそが、古い航空機メーカーをごぼう抜きにする唯一のチャンスだ。僕の銀色の翼が、三菱に世界の空をプレゼントしますよ」
鉛色の空から、冷たい雨粒が降り始めた。
岩崎小弥太は、吹き荒れる風の中でじっと芳信の瞳を見つめ返し、やがて、観念したように深く長く息を吐き出した。
「……負けたよ。我が三菱は、君という悪魔の頭脳にすべてを賭けよう」
岩崎がその小さな手を力強く握り返した瞬間、時代は決定的に動き出した。
大正の黄昏から昭和の恐慌へと続く激動の時を経て、芳信が大地に築き上げた鋼鉄の覇道は、ついに重力を振り切る時を迎えた。
世界を飲み込む暗黒の闇の中、九条芳信という若き支配者は、次なる覇権の空へ向けて、その凶悪な銀翼を静かに広げ始めたのであった。




