第二十一話:不落の盾、蹂躙の走破
昭和四年(一九二九年)春。
帝都・東京は、かつてない「速度」と「空間」の拡張に沸き立っていた。
この年の四月、日本航空輸送株式会社が東京、大阪、福岡を結ぶ日本初の定期旅客航空路を開設し、人々の目は一斉に空へと向けられた。
地下では前年に開通した東洋初の地下鉄が上野と浅草の間を走り抜け、都市の血流を劇的に加速させている。
時代はまさに、陸を越え、空へと広がる新しい立体的な交通の幕開けを迎えようとしていた。
だが、そのような華々しい都市の喧騒から遠く離れた多摩川の河川敷演習場には、春の陽気とは無縁の、泥にまみれた重苦しい空気が立ち込めていた。
今日は陸軍が極秘裏に進めてきた「新型装甲兵員輸送車」の最終比較審査の日である。
演習場の中心に鎮座するのは、大手の重工業メーカーが威信をかけて開発した試作一号車。
第一次世界大戦の思想を色濃く残す、戦車の車体を流用したキャタピラ式の武骨な車両であった。
「九条自動車のやつはまだか? 締め切り間際に『タイヤで行く』などと法螺を吹いたそうだが、所詮は成金男爵の道楽よ」
「タイヤなど泥に沈めばおしまいだ。戦場を舐めるのもいい加減にしろ」
居並ぶ競合他社の技師たちが、泥だらけの長靴を鳴らしながら冷笑混じりに囁き合っている。
彼らの目には、キャタピラこそが不整地を制する戦場の王者であり、九条の提言する装輪式の装甲車など、平和な市街地を走るためのおもちゃにしか映っていなかった。
軍上層部、参謀本部の面々もまた、不機嫌そうに懐中時計を眺めている。
その時、演習場の入り口から、地面の底を直接揺さぶるような狂暴な重低音が響いてきた。
春霞と土煙の向こうから姿を現したのは、この場にいる誰の目にも理解不能な、異形の怪物だった。
全長約六メートル、全幅二・五メートル。
敵弾を逸らすために計算し尽くされた、避弾経始と呼ばれる傾斜した装甲板に覆われた鋭利なボディ。
そして何より人々の度肝を抜いたのは、左右四対、計八輪もの巨大な低圧タイヤを装備したその異様な足回りである。
九条自動車工業・試作一号車、コードネーム『ガーディアン』。
車両が軍高官たちの前でピタリと止まると、重厚な装甲ハッチが油圧の音とともに静かに開き、油汚れ一つない端正な礼服姿の芳信が降りてきた。
背後には、油にまみれた作業着姿で不敵な笑みを浮かべる黒木伝蔵が控えている。
「お待たせしました、閣下。九条の『答え』をお持ちしました」
十歳になった芳信の声は、澄み渡りながらも冷徹な響きを持って、演習場のざわめきを一瞬で支配した。
「九条君。この八輪車が、他社のキャタピラ車より優れていると本気で思っているのかね? 装甲の重さをタイヤで支えれば、泥濘ではただの鉄の棺桶だぞ」
参謀本部の少将が、苛立たしげに眉をひそめる。
「論より証拠です。閣下、まずはあの急斜面の泥濘地の走破試験をお願いします。他社さんの車両からどうぞ」
芳信の静かな提案により、まずは重工業メーカーのキャタピラ車が動き出した。
轟音と黒煙を上げながら泥の斜面へ突っ込むが、厚い装甲による数トンの自重が完全に仇となっていた。
キャタピラが泥を掻き分けるものの、泥の下の固い岩盤を捉えきれず、車体は無惨にもズルズルと斜面を滑り落ちていく。
技師が強引にエンジンの回転数を上げるが、無理な負荷がかかった履帯が悲鳴を上げて外れ、車両は泥の海の中で完全に立ち往生した。
「……やはり、この時期の雨上がりには無理がある。回収班を出せ!」
技師たちが慌てふためき、少将が失望の溜息を吐く中、芳信が黒木に向かって顎でしゃくった。
「次、行きます。おやっさん、見せてやれ」
黒木がニヤリと笑ってハッチに潜り込むと、八輪装甲車が静かに、しかし凄まじいトルクの波を発生させて加速した。
『ガーディアン』の巨大なタイヤが泥の斜面に触れた瞬間、軍の高官たちも他社の技師たちも、自分たちの目を疑うような光景を目の当たりにした。
八つのタイヤが、まるで別々の意思を持った巨大な獣の足のように、地形に合わせて激しく上下にうねり始めたのだ。
これが、芳信が心血を注いだ『独立懸架』と『八輪全輪駆動』の真髄である。
車体がどれほど傾こうとも、タイヤは常に路面を捉え続ける。
泥を無駄に掻き飛ばすのではなく、泥の粘りすらも推進力に変えるように、八つの足が確実に大地を「掴んで」進んでいく。
他社の車両が力尽きた急斜面を、九条の装甲車はまるでお座敷を走るかのような滑らかさと安定感で突破し、頂上で華麗にスピンターンを決めてみせた。
「な……馬鹿な! あんな巨体のタイヤが、どうして沈まないのだ!?」
「八つの車輪で接地圧を極限まで分散させ、独立したサスペンションで常に最適なトラクションを維持しているからです。単純なパワーの差ではありません。理屈と、哲学の差ですよ」
芳信は表情一つ変えず、愕然とする技師たちを一瞥した。
だが、軍が要求する絶対条件の審査は、これだけでは終わらない。
「見事な走破性だ。だが、次は装甲試験だ! 我が軍の標準機関銃で、実弾による射撃試験を行う!」
少将の号令とともに、演習場に据え付けられた七・七ミリ重機関銃が、無人の『ガーディアン』に向けて火を噴いた。
耳をつんざく激しい金属音が鳴り響き、黒塗りの装甲板の上で無数の火花が散る。
歩兵一個分隊を消し飛ばすほどの数百発の徹甲弾が、容赦なく一点に集中して叩き込まれた。
「……これだけ撃てば、いくらなんでも中はズタズタだろう。表面が抜けなくても、衝撃で内部の部品が吹き飛んでいるはずだ」
少将がそう呟いて射撃停止を命じた瞬間、芳信は迷いなく歩み寄り、いまだに硝煙を上げる車体のハッチに手をかけた。
「進藤大尉、閣下。どうぞ、中をご確認ください」
芳信に促され、訝しげにハッチから中を覗き込んだ一同は、息を呑んで絶句した。
内部の居住区画は、外の地獄のような惨状が嘘のように、完璧な静謐と無傷の空間が保たれていた。
弾丸は一発も貫通していないどころか、内壁に張り巡らされた特殊な防音クッションには亀裂一つ入っていない。
さらに驚くべきことに、車内にはかすかな暖房の温もりと芳香すら漂い、小さなテーブルの上に置かれた水の入ったコップは、一滴の水もこぼしていなかった。
「な、なんだこれは……。あれほどの射撃の衝撃はどうした!? なぜ、コップの水がこぼれない!?」
「装甲には独自の表面硬化鋼を使用し、さらに内装にはゴムとフェルトの積層材を挟み、フレームから居住区を完全に切り離したフローティング構造(浮き構造)を採用しています。中にいれば、外で少し激しい雨が降っている程度の音しか聞こえなかったはずですよ」
芳信はハッチの縁を撫でながら、軍の重鎮たちに向かって冷ややかに笑った。
「戦争は悲惨なものです。ですが、その悲惨さを兵士に強いるのは、指揮官の無能でしかありません。僕の車に乗る者は、最高の安らぎの中で戦場を駆け抜ける。一人の血も流させないし、万が一にも死なせないと言ったはずです。これこそが、僕が定義する『最強の兵器』です」
静まり返る演習場。
他社の技師たちは、自分たちが作っていたものが、兵士の命を軽視した単なる「鉄の棺桶」に過ぎなかったことを思い知らされていた。
芳信が提示したのは、敵を殺すための兵器ではない。
「味方の命」を最優先に設計された、究極の移動要塞であった。
「……九条自動車の採用を、ここに決定する。君の言う通り、我々は本物の『理屈』を見せつけられたよ」
少将が震える声で敗北を認めると、進藤大尉が誇らしげに芳信の肩に手を置いた。
だが、芳信の視線はすでに、泥にまみれた大地ではなく、遥か上空の青空へと向けられていた。
「地上の盾は完成した。……さて、進藤大尉。軍の予算はまだ余っているはずだ。次は約束通り、あの『空』の話を詰めようか」
日本航空輸送の旅客機が、かすかなプロペラ音を立てて春の空を横切っていく。
この日、日本の陸軍は世界で最も壊れない「盾」を手に入れ、若き天才・九条芳信の底なしの狂気は、ついに重力を振り切って空の覇権へと手を伸ばし始めたのであった。




