第二十話:鉄の城と、狂気の人命賛歌
昭和三年(一九二八年)冬。
世界は、狂騒の二〇年代が最後の輝きを放つ「嵐の前の静けさ」の中にあった。
米国ではハーブ・フーヴァーが大統領に当選し、黄金時代の継続を謳歌していたが、同時に、のちの世界大恐慌へ続く歪みも確実に肥大化していた。
国内に目を向ければ、この年の十一月に昭和天皇の即位の礼「御大典」が挙行され、帝都は祝賀ムードに包まれていた。だが、その華やかさの裏で、前年に発生した昭和金融恐慌の傷跡は深く、軍部は自立した経済圏と強固な国防体制を確立すべく、急速に「機械化」の道へと突き進んでいた。
そんな時代の転換点、川崎の九条自動車工業・メインプラントは、外の喧騒を遮断したかのような熱気に包まれていた。
「芳信。参謀本部からの正式な要求仕様書だ」
陸軍大尉・進藤拓也が、分厚い書類の束を大きな作業机の上に叩きつけるように置いた。
「先の東富士演習場での六輪トラックのテスト結果を受け、軍上層部はついに本格的な『機械化歩兵部隊』の創設に本腰を入れることになった。君が豪語した通り、前線で歩兵を弾雨から守りながら強行突破できる『装甲兵員輸送車』の試作命令だ」
作業机の向こう側で、図面から顔を上げた芳信が、面白そうに目を細めた。
「……なるほど。それで、陸軍の老将たちはどんな『おもちゃ』を作れと?」
「敵の機関銃の掃射に耐える厚さ十五ミリ以上の装甲。不整地を走破する軌道帯の装備。そして、一個分隊十名を乗せて時速三十キロで巡航する能力だ。他の重工業メーカーもすでに試作に入っているが、軍の本命は君の九条自動車だ」
進藤が読み上げた仕様を聞き、芳信の隣に立っていた黒木伝蔵が呆れたように息を吐いた。
「大尉殿。十五ミリの装甲板で車体を覆って、さらに重たいキャタピラまで履かせたら、その車体重量は五トンや六トンじゃ済まねえぞ。いくらウチのディーゼルがトルクの化け物でも、時速三十キロなんて夢のまた夢だ」
「それは分かっている。だが、敵の弾から歩兵を守るためには、装甲とキャタピラは絶対に外せない条件なのだ」
進藤が食い下がるが、芳信は鼻で笑って書類をテーブルの端へ押しやった。
「却下だ、進藤大尉。僕の工場で、そんな鈍重な棺桶を作る気はない」
「な……九条、これは軍の正式な命令だぞ!」
「キャタピラはダメだ。あれは『車』の足じゃない。重すぎるし、何よりせっかく僕たちが舗装を始めた道路をボロボロに破壊してしまう。そんなものを作れば、自分で自分の首を絞めるようなものだ。……僕が作るのは、八輪の全輪駆動、それも『独立懸架』を備えた異形だ」
芳信は白墨を手に取り、黒板に流れるような筆致で八つのタイヤが個別に路面を捉える機構を描き出した。その複雑怪奇な構造は、当時の技術者の常識を遥かに超えていた。
「九条。そんな複雑な足回りにして、もし装甲が薄くなったら本末転倒だぞ。軍が第一に求めているのは、中に乗る歩兵の生存率なんだ」
「分かっているよ、大尉。だから、僕が作るんだ」
芳信は白墨を置き、進藤を真っ直ぐに見据えた。
「軍は兵士を『消耗品の弾』だと思っているかもしれない。だが、僕の車に乗る以上、一人の血も流させないし、乗員が死ぬことなど万が一にも絶対に許さない。そのための装甲であり、足回りだ」
その瞳に宿る絶対的な肯定と、技術への狂気的なまでの自負。
進藤は背筋に氷を押し当てられたような悪寒と、同時に、魂が震えるような感動を覚えた。この少年は、兵士を安く使い捨てることしか考えない軍上層部とは、根本的に思想が違うのだ。
「……分かった。他社のキャタピラ案は、私がすべて握り潰す。君の、その『八輪独立懸架装甲車』の試作を正式に承認しよう」
進藤が深く頷いた。議論が一段落し、設計室に静寂が戻ったその時、芳信は図面を片付ける手を止め、不意に進藤へ視線を戻した。
「ところで、大尉。地上を走る『鉄の城』の話はこれくらいにして、そろそろ『空』の話をしないか?」
「空……だと?」
不意を突かれた進藤が目を見開く。
「今年、リンドバーグが日本に来るという噂があるね。世界は空で繋がろうとしている。だが、今の日本の航空機は、海外の焼き増しか、あるいは華奢な骨組みに布を張っただけの凧のようなものばかりだ」
芳信は黒板の隅に、翼断面(翼型)の流麗な曲線を一本描き足した。
「僕のエンジンがあれば、もっと速く、もっと高く飛べる。それも、木製や布張りじゃない。全身を銀色の軽合金で包んだ、頑強で美しい『空の機械化兵団』だ。自動車で培うこの高出力ディーゼルと過給機の技術は、そのまま航空機用エンジンとして転用できる」
進藤は絶句した。装甲車の開発さえ始まっていない段階で、この少年はすでに陸軍航空隊、あるいはそれ以上の未来を夢想している。
「大尉。陸軍が本当に世界と渡り合う気があるなら、僕に航空機開発の予算も用意しておいてくれ。地上の泥を蹂躙した次は、雲の上を支配してみせる」
芳信の不敵な笑みは、窓の外で荒れ狂う冬の吹雪さえも焼き尽くすような熱量を帯びていた。




