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オーバー・レブ・ヒストリー 〜車を愛し過ぎた少年の国家魔改造録〜  作者: tky
第2章:少年の悲願と昭和の歴史

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第十九話:硝子張りの鳥籠と、静かな風

私は、九条華子。


芳信の一つ年上の姉で、秀一お兄様の妹。


九条家の長女として、綺麗なお着物を着て、お花やピアノのお稽古をして、誰からも愛されて育ってきた。


だけど最近、私の世界は、まるで硝子張りの鳥籠のように冷たくて、息苦しい場所になってしまったような気がする。


「お兄様、ごきげんよう」


廊下ですれ違った秀一お兄様に声をかけると、お兄様は立ち止まり、昔と変わらない優しい笑顔を向けてくれた。


「華子。今日もピアノのお稽古かい? 頑張りなさい」


撫でてくれるお兄様の手は温かいけれど、その目は、私が知らない遠くの世界を見ている。


お兄様はご婚約されてから、すっかり大人になってしまった。


お父様と一緒に書斎に籠もることが増え、私とお庭で遊んでくれる時間はもう、どこにもなくなってしまったのだ。


進学や家のこと、私がまだ触れてはいけない難しいお話が、お兄様の背中をどんどん遠ざけていく。


そして、一番変わってしまったのは、私のたった一人の弟、芳信だ。


「おやっさん! フィルターの密度が足りない! これじゃあ微細な煤まで捕まえきれないぞ!」


庭の奥から、芳信の鋭い声が聞こえてくる。


覗き込むと、そこには油にまみれ、顔を真っ黒にした芳信が、職人さんたちに指示を飛ばしている姿があった。


芳信の目は、氷のように冷たくて、燃えるように熱い。


陸軍の怖い軍人さんや、三菱の偉いおじ様たちが、芳信の前ではまるで家来のように頭を下げるのを見たことがある。


芳信は、世界を動かす「怪物」になってしまったのだ。


私には、芳信が作っている機械の仕組みなんて、これっぽっちも分からない。


私だけが家族の中でひとりぼっちになっていくような、たまらない寂しさが胸を締め付ける。


「……華子様。どうかなさいましたか?」


乳母のお菊が、心配そうに声をかけてくれた。


「お菊。芳信はもう、私の知っている芳信じゃないみたい。鉄の匂いがして、とても遠い人になってしまったわ。最近、お外の空気も煙っぽくて、なんだか喉が痛いし……心まで苦しくなるの」


思わず溢れた私の弱音を、お菊は静かに、包み込むように聞いてくれた。


数日後の午後。


私が一人で自室の窓辺に座り、どんよりと曇った帝都の空を眺めていると、コンコン、と控えめなノックの音がした。


「お姉様。入ってもいいかな?」


声の主は、芳信だった。


扉を開けると、そこには、いつもの作業着ではなく、綺麗に洗濯されたシャツを着た芳信が立っていた。


右手には薄っすらとオイルの染みが残っているけれど、丁寧に洗ったことが見て取れた。


「どうしたの、芳信」


「これ……お姉様に、プレゼント。お菊から聞いたんだ。最近、帝都の空気が悪くて喉が痛いって」


芳信の後ろには、見慣れない箱のような機械が、台車に乗せられて運ばれてきた。


「これ『空気清浄機』というんだ。工場で作った排ガスの煤を吸い取る技術を応用して、お姉様の部屋用に特別に設計した。室内の汚れた空気を吸い込んで、煤塵を取り除いてから、綺麗な空気だけを循環させる仕組みだよ」


芳信がスイッチをカチリと入れると、中からブーンという微かな羽音が聞こえ始めた。


私は、信じられない思いで芳信の顔を見つめた。


彼は世界を動かすような、恐ろしい機械ばかりを作っているのだと思っていた。


でも、この機械は違う。


人を威圧するためでも、物を運ぶためでもない。


ただ、私の喉の痛みを和らげるためだけに、彼がその天才的な頭脳を使って作ってくれたものなのだ。


「本当に……私のために作ってくれたの?」


「当然だろう。僕は九条芳信だ。家族の健康管理すらできずに、世界の技術革新なんて語れないからね。……それに、開発に没頭しすぎて、お姉様の顔を見るのが久しぶりになってしまったことは、僕の計算ミスだよ」


少しだけ照れくさそうに、でも誇らしげに胸を張る芳信の言葉に、私の胸の奥で張り詰めていた氷が、音を立てて溶けていくのが分かった。


機械の吹き出し口から流れてくる風は、お庭で嗅ぐ煙の匂いとは違う、雨上がりの森のような、清々しくて優しい匂いがした。


「……ありがとう、芳信。とっても、いい気持ち」


私が微笑むと、芳信は満足げに、いつもの不敵な笑みを浮かべた。


その笑顔は、かつての私の大好きな、どこか憎めない弟の笑顔だった。


「本当は、お姉様のために、音も煙も出ない、世界で一番静かで美しい乗用車を作りたいんだ。でも、今の僕はまだ、この街の空気を汚すことしかできないから。せめて、この部屋の中だけでも、最高の空気環境を提供したい」


芳信が私の手をそっと握ってくれた。


その手は温かく、かすかに鉄の匂いがした。


私は、芳信が怪物だなんて思った自分を恥じた。


彼は怪物なんかじゃない。


誰よりも家族を愛し、その不器用な優しさを『機械』という形でしか表現できない、ちょっと変わった私の弟なのだ。


「芳信、私ね……」


「うん?」


「私、ピアノをもっと練習するわ。あなたがいつか、その『静かで美しい車』を完成させた時に、そのお祝いとして、一番に聴かせてあげられるような素敵な曲を弾けるように」


芳信は目を丸くして、それから、嬉しそうに何度も頷いた。


「ああ。楽しみにしてる。……その時が来たら、お姉様をその特別な車に乗せて、どこまでも続く、綺麗な景色を見せに行くと約束するよ」


硝子張りの鳥籠の窓から、秋の夕日が差し込んできた。


その光は、芳信が届けてくれた清らかな風に乗って、私の世界を温かく満たしてくれた。

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