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オーバー・レブ・ヒストリー 〜車を愛し過ぎた少年の国家魔改造録〜  作者: tky
第2章:少年の悲願と昭和の歴史

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第十八話:排ガスの翳と、銀の指輪

昭和三年(一九二八年)の秋。


帝都・東京は、目覚ましい復興と発展の槌音に包まれていた。


世界では前年にリンドバーグが初の大西洋単独無着陸飛行を成功させ、国内ではこの年の二月に初の普通選挙が実施されるなど、時代は急速に「大衆」と「速度」の時代へと舵を切っていた。


銀座の目抜き通りには、九条自動車工業が生産した乗合バスや商用トラックがひっきりなしに行き交い、人々の生活と物流をかつてない速度で回している。


だが、その活気溢れる都市の熱狂がもたらす代償を、芳信は一人、庭園の隅で静かに見つめていた。


秋晴れの澄んだ空を見上げる芳信の眉間に、深い皺が刻まれる。


視線の先、帝都の中心部には、薄っすらとした淀んだ灰色の靄がかかっていた。


工場群から吐き出される煤煙と、自らが世に送り出した自動車たちが吐き出す排気ガスである。


まだ「公害」という概念すら存在しないこの時代、人々はその煙を「産業と発展の象徴」として無邪気に歓迎していたが、芳信の鼻腔を突くのは、かつての世界で知ったあの不快な光化学スモッグの予感だった。


「……僕がこの街に、この景色を連れてきてしまったのか」


芳信は独り言のように呟いた。


前世の記憶を持つ彼は、この灰色の靄がやがて人々の健康を蝕み、歴史に大きな影を落とすことを誰よりも理解している。


車を創る者として、自分が撒き散らした副産物には責任を持たなければならない。


芳信は脳内で、現実的な排気ガス対策のロードマップを猛烈な勢いで組み上げ始めた。


触媒コンバーターの概念を応用し、排気管内で有害物質を浄化する仕組み。


さらに、燃料に含まれる硫黄分を取り除く『脱硫プロセス』の確立。


「金と時間はかかる。だが、未来を切り売りして走る車に、真の覇権は握れない」


芳信がそう決意を固めた時、背後から衣擦れの音が近づいてきた。


「坊ちゃま、いつまでこのような場所におられるのですか。ほら、お召し替えの時間でございますよ。秀一様と西條侯爵家のお嬢様との、大切な結納の儀式が始まってしまいます」


お菊が、芳信用の真新しい礼服を手に恭しく、しかしどこか急かすように立っていた。


芳信は泥のついた作業着を脱ぎ捨て、お菊の手を借りて重厚な礼服へと身を包む。


鏡に映る自分の姿は、もはやただの子供ではなく、九条という家の重みを担う一員としての顔をしていた。


両家の顔合わせと結納の場となる九条邸の大広間には、白檀の香りと緊張感が漂っていた。


磨き上げられた床には一分の隙もなく座布団が並べられ、そこには一族の将来を左右する重鎮たちが揃っている。


ピンと張り詰めたような、しかし良縁を祝う華やいだ空気が、芳信の肌をちりちりと刺激した。


上座には父・正和と母・静子が座り、その向かいには西條侯爵夫妻が威厳を持って座している。


西條侯爵、康隆やすたかは、財閥のトップらしい重厚な体躯と鋭い眼光を持つ男だが、今日は終始相好を崩していた。


侯爵夫人の勢津子せつこは、華族の奥方らしい洗練された上品さを纏いながらも、どこか計算高い知性を瞳の奥に光らせている。


そして、侯爵夫妻の隣に座るのが、今日の主役である令嬢の雪子だった。


淡い桃色に鶴が舞う豪奢な振袖を身に纏った彼女は、秀一と同い年の十五歳でありながら、すでに名門の娘らしい凛とした気品を備えていた。


儀式が滞りなく進み、祝いの茶が振る舞われると、西條康隆侯爵が豪快な声で口を開いた。


「九条男爵、この度は見事な良縁に恵まれ、我が西條家としても喜ばしい限りです。秀一殿のように学業優秀で気品ある若者が雪子の婿となってくれるとは、西條の未来も安泰というもの」


「もったいないお言葉です。我が家の秀一も、雪子嬢のような美しく聡明な方をお迎えでき、大変喜んでおります」


父・正和が穏やかに応じると、勢津子夫人が扇子で口元を隠しながら微笑んだ。


「ええ、雪子も秀一様のお写真を拝見して以来、今日の日をそれは楽しみにしておりましたのよ。ねえ、雪子」


話を振られた雪子は、少しだけ頬を染め、伏し目がちな長い睫毛を上げて秀一の方を真っ直ぐに見つめた。


「秀一様。至らぬ娘ですが、これからどうぞよろしくお願いいたします。芳信様や華子様とも、本当の姉弟のように仲良くさせていただければと存じます」


その言葉と仕草には、政略結婚という枠を超えた、年相応の恥じらいと好意が確かに滲み出ていた。


秀一もまた、完璧に仕立てられた三つ揃いの背広を着こなし、絵に描いたような優等生の微笑みで彼女に応じている。


「雪子さん。私の方こそ、あなたを必ず幸せにすると誓います」


なごやかな歓談が続く中、西條康隆侯爵がふと芳信の方へ視線を向けた。


「それにしても、芳信君の噂はかねがね聞いておりますよ。我が財閥の研究所の者たちも、君の生み出す新型エンジンには舌を巻いております。これからは親戚として、我が家も君の活動を陰ながら応援させてもらいたい」


西條侯爵の言葉は一見温かいが、その裏には「九条の技術」を自らの陣営に繋ぎ止めようとする強烈な意志が透けて見えた。


芳信は「ありがとうございます」とだけ短く返し、下座で静かに頭を下げた。


その時、隣に座っていた西條隆明が、膝を寄せて小声で話しかけてきた。


「やあ芳信。お疲れ様。……いや、これでお互いに本当に親戚というわけだね」


「西條……いや、今日からは『隆明』と呼ぶべきか。ああ、そうだな。よろしく頼むよ」


「うん、その方が嬉しいよ。それにしても、君の兄上は非の打ち所がないね。姉上が羨ましいくらいだよ。こうして家同士がしっかりと結びつけば、君だって心強いだろう? 君の技術を我が家が全面的にバックアップできるし、何より後ろ盾が盤石になれば、君がこれからも自由に研究を続けられる環境が守られるわけだからね」


隆明は友人らしい明るい声で、彼なりに芳信の将来を案じ、励ますような口調で続けた。


「父もね、君の創り出す技術には大きな期待を寄せているんだ。もちろん姉上の慶事を喜んでいるけれど、君の活動を支えることが結果として両家をより高みへ引き上げることになると考えているみたいだよ。この縁組みは、僕たちにとっても最良の未来への一歩だと思うんだ。芳信、君はどう思う?」


「……そうだね。両家にとって、これ以上ない形なんだろう」


芳信が噛みしめるように答えると、隆明は嬉しそうに頷いた。


隆明の言葉には、友人である芳信の未来が約束されたことを心から祝う、純粋な喜びが宿っていた。


だが、その真っ直ぐな友情がもたらす「正しい理屈」こそが、かえって芳信の胸を激しく締め付けた。


自分自身が生み出した「技術」への期待が、大好きな兄の人生を縛る大きな要因の一つになっている事実に、芳信は今すぐこの場から逃げ出したい衝動を必死に堪え、ただ秀一の完璧な横顔を見つめ続けるしかなかった。


その日の夜。


芳信は屋敷の奥にある自分専用の設計室に籠もり、真っ白な設計図に向かって万年筆を乱暴に走らせていた。


「排ガス浄化装置キャタライザー。燃料の脱硫技術の確立……。やれることはすべてやる」


頭の中にある知識を、狂ったように紙に書き殴っていく。


空を汚す煤煙は、自分の技術で必ず浄化してみせる。


だが、自分が走れば走るほど、兄が家督という重圧に縛り付けられていくこの構造を、どうすればいいのか。


静かにノックの音が鳴り、結納を終えたばかりの秀一が入ってきた。


「芳信。こんな時間まで設計か。精が出るな」


「……兄上。今日はお疲れ様でした」


芳信が顔を上げずに言うと、秀一は苦笑してその隣に座った。


「そんな顔をするな。西條の雪子嬢は、とても聡明で美しい方だった。私は、自分でこの道を選んだんだ。お前が軍や三菱を相手に堂々と渡り合えるよう、私が背後を固める。それが九条家の長男としての私の誇りだよ」


秀一は、机に散乱した排ガス浄化の図面を手に取った。


「……ほう、これはまた新しいことを考えているのだな。空気を綺麗にするための装置か?」


「ええ。僕たちが豊かになる代償に、この街の空を汚したくないんです。兄上が守ってくれているこの『九条』の名を、汚れた煙で包みたくない」


芳信の言葉を聞き、秀一は優しく、それから強くその肩を叩いた。


「分かっている。お前は創れ。私は守る。……それが私たちの兄弟の形だろう?」


秀一の瞳には、かつての幼い兄の面影はなく、家を背負う男としての強靭な意志が宿っていた。


芳信は、溢れそうになる感情を必死に堪え、深く頷いた。


「ああ。約束するよ、兄上。……世界で一番綺麗で、誰も追いつけない車を、僕が必ず創ってみせる」


夜の静寂の中、決意を新たにする二人の兄弟を、窓から差し込む月明かりが静かに照らしていた。

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― 新着の感想 ―
排ガスの少ない内燃機関なら自動車だけじゃなくて鉄道や工場内の動力としても使い道がありますねえ(トンネルや密閉空間で使いやすかろう) というか振動が少なくて高馬力なエンジンがあれば高速鉄道(新幹線じゃな…
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