第十七話:王冠と鎖
学習院中等科の教室には、特権階級の子弟たちだけが許される、穏やかで退屈な空気が満ちていた。
教師が黒板に書き込む歴史の年号をノートに写しながら、私の意識は完全にこの教室から切り離されていた。
窓の外、晴れ渡った帝都の空をぼんやりと見つめていると、遠くからあの重厚なエンジンの音が聞こえてくるような気がするのだ。
「ねえ九条君。聞いたよ、君のところの工場。また何かとんでもない車を作って、軍の偉いさんを腰抜けにさせたんだって?」
休み時間になるなり、斜め後ろの席の男爵家の子息が、面白半分といった様子で声をかけてきた。
「ええ、まあ。技術的なことは私にはよく分かりませんが、弟の研究所が新しいエンジンを開発したようでして」
私は、彼らが期待する「優等生としての完璧な笑み」を浮かべて、当たり障りのない返事をした。
「すごいよなあ、芳信君は。まだ初等科なのに、学校もろくに来ないで工場に入り浸ってるんでしょ? うちの親父なんて『九条家の次男坊は油まみれの職人崩れだ』って笑ってたけど、あの三菱の岩崎さんが後ろ盾になってるっていうから、笑い事じゃないよね」
無邪気を装った嫉妬と、理解の及ばないものに対する恐怖。
同級生たちの言葉の裏にある感情を、私は痛いほど読み取っていた。
「お恥ずかしい限りです。弟は少し、機械への情熱が強すぎるもので」
適当に相槌を打ちながら、私は机の下で拳をきつく握り締めていた。
爪が掌に食い込む痛みだけが、私の中にある黒くドロドロとした感情を抑え込んでくれている。
九条秀一、十三歳。
私は九条家の嫡男であり、いずれはこの歴史ある男爵家を継ぐ身である。
幼い頃から、跡取りとしての厳しい教育を受けてきた。
学業の成績は常に上位であり、剣道や馬術といった武芸から、華族としての社交の作法に至るまで、周囲が求める「理想の若君」を完璧に演じ続けてきた自負がある。
父からも、母からも、十分な愛情を受けて育った。
しかし、私の中には常に、拭い去ることのできない静かな焦燥感が巣食っているのだ。
九条芳信。
四歳も年下の、私の弟。
右手に落ちない油汚れをつけ、常に大人びた、怜悧な瞳をしているあの小さな少年。
私は、彼が恐ろしかった。
そして、誰よりも彼を誇りに思っていた。
彼が初めて自作の単気筒エンジンを動かした時のこと、関東大震災の猛火からそのエンジンとポンプで我が家を守り抜いた時のことを、私は生涯忘れることはないだろう。
私には、あんな力はない。
私は既存のルールの枠内で優秀であるに過ぎないが、弟はルールそのものを破壊し、自分自身のルールで世界を創り変えようとしている。
彼の手にかかれば、巨大な財閥のトップも、国家の中枢を担う政治家も、軍部の将校たちも、すべて彼の思い通りに動く「車のパーツ」にされてしまうのだ。
ある夜、私は書斎で父・正和と二人きりになった。
父は深くため息をつきながら、高価なウイスキーのグラスを傾けていた。
「秀一。お前には、苦労をかけるな」
父の白髪が、ここ数年で急激に増えたことを私は知っている。
弟の圧倒的な才能を世間の嫉妬や権力の暴走から守るため、父は華族社会のしがらみの中で泥を被り、あらゆる政治的防壁を築くための交渉に心血を注いでいるのだ。
「いいえ、父上。芳信の力は我が家の、いえ、国家の財産です。兄として、弟を誇りに思います」
私が本心からそう答えると、父は少しだけ悲しそうな目を向けた。
「芳信は……強すぎる。あの才能は、いずれ国家という枠組みすらも小さく感じてしまうだろう。放っておけば、自らの生み出した熱で、自分自身を、そして九条家をも焼き尽くしかねない」
父の言葉の重みに、私は息を呑んだ。
「お前は、当主となれ、秀一。あいつには決して背負えないものがある。それは『家』という鎖であり、社会との『折り合い』だ」
父はグラスを置き、私の肩に重く温かい手を置いた。
「あいつがどれだけ速い車を創ろうとも、走るべき『道』を整え、行き先をコントロールする者がいなければ、ただの暴走だ。お前は九条家当主として、表の世界で芳信の手綱を握り、あいつを守る強固な盾になれ。それが、秀一、お前の戦いだ」
その言葉を聞いた時、私の中で燻っていた焦燥感が、一つの明確な覚悟へと変わった。
そうだ。
私には、エンジンを設計することも、鉄を削ることもできない。
だが、彼が狂気に満ちた速度で駆け抜けるための「道」を、政治と経済の泥濘を平らげて舗装することはできるはずだ。
放課後、私が屋敷に戻ると、ちょうど芳信が川崎の工場から帰ってきたところだった。
作業着は油と泥で汚れ、小さな顔には疲労の色が浮かんでいる。
「おかえり、芳信。今日も工場か?」
私が声をかけると、芳信はいつものように、兄に向ける無邪気な笑顔を見せた。
「ただいま、兄上。うん、今日は新しいエンジンの耐久テストでね。少し手こずったけど、最高の結果が出たよ」
「そうか。お前が頑張るのはいいが、あまり父上や母上に心配をかけるなよ」
「分かってるよ。でも、止められないんだ。僕には、どうしても創らなきゃいけないものがあるから」
その瞬間、芳信の瞳から子供らしさが消え失せ、底知れぬ深淵のような大人の光が宿った。
私はその瞳に恐怖を覚えながらも、決して目を逸らさなかった。
「芳信。お前が何を創ろうとしているのか、私にはすべてを理解することはできない」
私は一歩前に踏み出し、油に汚れた彼の小さな右手を強く握った。
芳信が驚いたように目を丸くする。
「だが、思い切り走れ。軍でも政治家でも、お前を利用しようとする連中からは、私がすべてお前を守る。お前が創り出す車を、世界で一番安全に走らせてやる。私は、そのための九条家当主になる」
私がまっすぐにそう告げると、芳信は一瞬だけ呆気にとられたような顔をした後、ふっと口元を緩め、今度は本当に年相応の、純粋な弟としての笑みを浮かべた。
「ありがとう、兄上。……頼もしいよ、本当に」
私たちは繋いだ手を離し、それぞれの戦場へと向かうべく背を向けた。
私は彼のように、世界を驚嘆させる発明はできない。
だが、彼という怪物を繋ぎ止め、正しい方向へ導くための「王冠」と「鎖」になること。
それが、九条秀一という人間に与えられた、誇り高き使命なのだ。




