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オーバー・レブ・ヒストリー 〜車を愛し過ぎた少年の国家魔改造録〜  作者: tky
第2章:少年の悲願と昭和の歴史

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第十六話:軍靴と悪魔の契約

陸軍省の薄暗い執務室で、私はひたすらに万年筆を走らせていた。


机の上にうずたかく積まれた書類の山は、すべて数日前の東富士演習場でのテストランに関する報告書である。


インクの匂いと、安煙草の紫煙が立ち込める部屋の中、私の頭からあの泥濘の海と、それを蹂躙した黒い獣の咆哮が離れることはなかった。


「進藤大尉。郷田少将が、馬匹の調達予算を半分に削る案に判を押したそうだ」


同僚の将校が、信じられないものを見るような目で私に囁いていった。


無理もないことだ。


郷田少将といえば、陸軍内部でも急先鋒の「馬匹派」であり、機械化に対して最も強硬に反対してきた古参中の古参である。


その彼が、自らの手足を切り落とすような予算削減案にあっさりと同意したのだ。


理由は一つしかない。


彼自身の目で、あの日、軍馬が絶対に踏み込めない死の泥濘を、九条の新型六輪トラックが圧倒的な力でねじ伏せるのを見てしまったからだ。


あの狂暴なディーゼルエンジンの重低音が、郷田少将の数十年にわたる軍人としての矜持を、文字通り泥の中へ叩き潰したのである。


報告書の末尾に自らの署名を記しながら、私は深くため息をついた。


「……化け物め」


私の口からこぼれたその言葉は、あの六輪トラックに向けられたものではない。


あんな常軌を逸した鉄の塊を創り出し、老練な将軍を赤子のように黙らせた、わずか九歳の少年、九条芳信に向けられたものだった。


初めて九条家の工房を訪れた時のことを、私は今でも鮮明に覚えている。


華族の次男坊が、暇を持て余して泥遊びの延長で機械いじりをしている。


最初は、その程度の認識だった。


三菱の岩崎小弥太が巨額の投資を決めたと聞いた時も、財閥特有の青田買いか、政治的なポーズの類だろうと高を括っていた。


だが、私のその浅薄な認識は、彼が庭先に作り上げたテストコースと、強固なラダーフレームを見た瞬間に打ち砕かれた。


あの日、私は初めて「未来」というものに触れたのだ。


彼は子供の顔をして、軍の参謀本部すら思いつかないような高度な戦術的ビジョンを語った。


インフラを支配し、燃料を支配し、そして道を往く車体そのものを支配する。


それは単なる工業製品のプレゼンテーションではなく、国家総力戦という新しい戦争の形そのものだった。


あの日から、私は彼に魅入られた。


いや、魂を売り渡したと言ってもいい。


私は実利主義者だ。


大日本帝国陸軍が、いつか来る大陸での大戦を生き抜くためには、精神論や古い戦術ではどうにもならないことを痛いほど理解していた。


だからこそ、芳信の異常な技術力を国家の急務として誰よりも高く評価し、彼のために軍内部の抵抗勢力と戦い、予算をもぎ取るための政治工作に奔走してきたのだ。


「進藤大尉、次はこいつの背中に『装甲』を載せてみようか。大砲を牽引するだけじゃない、弾雨の中を強行突破する、無敵の装甲兵員輸送車をね」


雨に打たれながら彼が放ったその言葉が、耳の奥で何度も蘇る。


装甲兵員輸送車。


その言葉の持つ戦術的意味の恐ろしさを、あの九歳の少年は完全に理解していた。


歩兵を装甲で守りながら最前線へと迅速に展開させ、敵の防御線を機械化部隊の速度で食い破る。


それは、膠着した塹壕戦という現代の戦争の常識を、根本からひっくり返す悪魔の概念である。


もしそんなものが実用化されれば、陸軍の編成そのものを一から作り直さなければならなくなる。


私は、彼を「利用している」つもりだった。


国家の利益のために、あの天才少年の頭脳を陸軍のエンジンとして組み込んでやったのだと、そう思っていた。


だが、本当にそうだろうか。


気がつけば、陸軍の戦略そのものが、彼の創り出す「新製品」の性能に引きずられ、後追いで変化させられているではないか。


彼が道を作れば、軍はそこを進むしかなくなる。


彼が新しい武器を作れば、軍はそれを使った戦術を考えるしかなくなる。


どちらが支配者で、どちらが歯車なのか。


ふと、背筋に冷たいものが走った。


あの怜悧で大人びた瞳の奥には、彼にしか見えていない「完成された未来の設計図」が存在している。


我々大人たちは、彼がその設計図を現実の泥濘の上に組み上げるための、ただの「部品」に過ぎないのではないか。


政治家も、財閥も、そしてこの陸軍さえも。


「……それでも、だ」


私は万年筆を置き、両手で顔を覆った。


恐怖はある。


彼の才能が、この国をかつてない繁栄へと導くのか、それとも制御不能な破滅の泥濘へと引きずり込むのか、私には分からない。


だが、彼が提示する力はあまりにも魅力的すぎた。


フォードやシボレーといった巨大な黒船が押し寄せる中、我が国が独立を保ち、大陸での権益を守り抜くためには、あの少年の生み出す「圧倒的な暴力」が必要なのだ。


私は立ち上がり、窓の外を見た。


鉛色の空の向こう、川崎の方向には、絶え間なく黒煙を上げる九条自動車工業の巨大な要塞があるはずだ。


「九条芳信。君がこの国をどこへ連れて行くつもりなのか、私には分からない」


私は窓ガラスに映る自分自身の疲労しきった顔に向かって、誓うように呟いた。


「だが、君が最高の心臓を創り続ける限り、私は喜んで君の歯車になろう。軍内部の無能な老害どもは、私がすべて排除してやる。君の走る道に、一切の障害は残さない」


それが、悪魔と契約した軍人の末路であったとしても。


私は軍服の襟を正し、完成した報告書を掴むと、次なる予算獲得の闘争が待つ会議室へと重い軍靴の音を響かせて歩き出した。

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