第十五話:泥の海を裂く鉄獣
昭和二年、六月。
富士の裾野に広がる東富士演習場は、三日前から降り続く記録的な豪雨によって、大地としての原型を完全に失っていた。
見渡す限りの広大な平原は、深さ数十センチに達する粘土質の泥沼と化し、一歩足を踏み入れれば軍靴が膝まで呑み込まれる底なしの沼地へと変貌している。
雨粒が容赦なく地面を叩きつけ、視界は灰色の霧に遮られて数十メートル先すらおぼつかない。
陸軍が誇る軍馬でさえ歩みを進めることを拒絶する、文字通りの「死の泥濘」であった。
その絶極的な泥の海の前に、数台の天幕が張られ、軍の上層部たちが苦々しい顔で並んでいた。
「……進藤大尉。貴様、我々を愚弄しているのか?」
天幕の下、雨を防ぐ外套に身を包んだ陸軍省の古参将校、郷田少将が吐き捨てるように言った。
彼の視線の先には、泥の海を前にしてアイドリング音を響かせる一台の異様な車両が停まっている。
「いくら三菱が推す九条の新型とはいえ、こんな底なし沼で自動車のテストなど狂気の沙汰だ。米国のフォードだろうがシボレーだろうが、この泥に入れば数メートルで車軸まで埋まり、鉄の棺桶と化す。帝国の足は、やはり軍馬の蹄をおいて他にはないのだ!」
郷田の怒鳴り声は雨音に掻き消されそうだったが、その言葉には、新しい機械化という波に対する古い軍人特有の恐怖と拒絶が混じっていた。
隣に立つ進藤大尉は、眉間に深い皺を寄せながらも、視線を真っ直ぐに前へと向けたまま答えた。
「閣下。私も最初はそう思いました。しかし、あの『開発者』は、この最悪の状況でなければテストの意味がないと申しているのです」
「開発者だと? あの華族の小僧のことか。所詮は金持ちの道楽、おもちゃ遊びに過ぎん!」
郷田が苛立たしげに吐き捨てたその時、天幕の横から、小さな黒い傘を差した影がゆっくりと歩み出てきた。
泥よけの長靴を履き、特注の小さな外套を羽織った九条芳信である。
九歳という年齢には不釣り合いなほど冷徹で静かな瞳が、郷田を真っ直ぐに射抜いた。
「おもちゃ遊び、か。なるほど、馬の蹄に人生を捧げてきた閣下から見れば、そう見えるのかもしれませんね」
芳信の澄んだ声が、雨音を切り裂いて将校たちの耳に届いた。
「な、なんだと貴様……!」
「ですが閣下。遠からず我が軍が赴くであろう大陸の大地は、雨季になればこの演習場など比較にならないほどの広大な泥の海と化す。馬は泥に脚を取られれば骨を折って死にますが、僕の『車』は骨を折りません」
芳信は傘の柄を握る手に力を込め、泥の海の向こうを指差した。
「進藤大尉から聞きましたよ。軍が求めているのは、道なき道を往き、前線に物資と弾薬を絶え間なく送り届ける『動く兵站拠点』だと。ならば、この程度の泥濘を走破できなくて、何が帝国の足ですか」
その言葉に、郷田は怒りで顔を赤くしたが、芳信から発せられる異様な威圧感に気圧され、反論の言葉を飲み込んだ。
芳信は視線を車両へと移し、短く命じた。
「おやっさん。見せてやってくれ。ガソリンの火花なんかじゃない、圧縮された空気が燃料を叩き潰して爆発する、本物の力というやつを」
「おうよ、坊ちゃん!」
運転席から顔を出した黒木伝蔵が、油に汚れた顔でニヤリと笑い、ギアを重々しく一速に叩き込んだ。
九条型・六輪駆動試作車。
その巨大な黒いボンネットの下に収められているのは、当時の日本では誰も実用化できなかった怪物、新開発の『予燃焼室式ディーゼルエンジン』であった。
黒木がアクセルペダルをじわリと踏み込む。
ガソリンエンジンのような甲高い咆哮ではない。
ガラガラガラッ! という金属の塊同士がぶつかり合うような特有の燃焼音が響き渡り、太い煙突のようなマフラーから真っ黒な排気煙が天高く吹き上がった。
それはまるで、深い眠りから覚め、泥を喰らおうと猛る漆黒の獣の呼吸だった。
ズガァァァァンッ!
クラッチが繋がった瞬間、六つの巨大なカーボンブラック強化タイヤが、一斉に泥を掴んだ。
「……っ!?」
郷田少将が息を呑む。
通常の二輪駆動のトラックであれば、この瞬間、空転したタイヤが自ら泥を掘り進み、車体を沈めて終わりである。
しかし、六輪駆動の圧倒的な接地面積は、車体の重さを分散させ、底なしの泥の表面を「掴む」ことを可能にしていた。
さらに、高回転で馬力を稼ぐガソリンエンジンとは対極にある、ディーゼルエンジン特有の地を這うような極太の低速トルク。
タイヤは空転することなく、泥の粘りを力でねじ伏せ、重さ数トンにも及ぶ鋼鉄の塊を、確実な前進力へと変換していく。
ズブリ、ズブリと泥を深く抉りながら、六輪の獣は狂暴な燃焼音を響かせて泥の海へと突入していった。
「ば、馬鹿な……沈まないだと……?」
郷田は信じられないものを見るように目を剥いた。
車軸の半分までが泥に埋まっている。
それでも、車体は止まらない。
サスペンションが軋みを上げ、フレームが泥の抵抗を受けて捻れそうになりながらも、ディーゼルエンジンのトルクは一切の減衰を見せず、無慈悲にタイヤを回し続ける。
泥が数メートルの高さまで跳ね上がり、雨と混ざって周囲を茶色く染め上げていく。
「そのまま行け! 丘陵を登れ!」
芳信が傘を投げ捨て、雨に打たれながら叫んだ。
彼が指差した先には、演習場の奥にある急勾配の丘があった。
普段であれば戦車でさえ登坂をためらうような、雨水を吸ってぬかるんだ泥の斜面である。
六輪の獣は、黒煙を吐き出しながらその斜面へと取り付いた。
斜度のキツさに、さすがに車体の速度が落ちる。
「……止まるぞ。やはりあんな鉄の塊では……」
郷田が安堵とも焦燥ともつかない声を漏らした。
ガソリンエンジンならば、ここで回転数が落ち、トルクを失ってエンストを起こす致命的な瞬間だった。
しかし、芳信の口元には悪魔のような笑みが浮かんでいた。
「回転が落ちた時こそ、あいつの真骨頂だ」
斜面の途中で速度が落ちた六輪トラックのボンネットから、これまでとは違う、空気を引き裂くような甲高い金属音が響き始めた。
キィィィィンッ!
芳信が密かに組み込んでいた切り札、『過給機』の過給音である。
エンジンの回転に連動して大量の空気をシリンダー内に強制圧送し、燃焼効率を爆発的に引き上げる悪魔の装置。
回転数が落ちて苦しむはずのディーゼルエンジンが、過給機によって強制的に空気を叩き込まれ、さらなる莫大なトルクを発生させたのだ。
ゴワァァァァァァンッ!!
黒煙が一層濃く噴き出し、泥の斜面で止まりかけていた六輪トラックが、まるで何かに後ろから巨大な手で押し上げられるように、再び力強く斜面を登り始めた。
泥を掻きむしり、轍を深く刻みながら、鉄の獣は急勾配をねじ伏せていく。
そして。
重々しいエンジンの咆哮と共に、六輪駆動の試作車は泥の丘の頂上へと完全に登り切った。
頂上に鎮座した黒い車体が、勝利を宣言するように、長く、腹の底に響くクラクションを鳴らした。
プァァァァァーーーーンッ!!
その音は、土砂降りの雨を切り裂き、演習場の隅々にまで木霊した。
天幕の下は、死のような静寂に包れていた。
軍馬の優位性を信じて疑わなかった郷田少将は、傘を差すことすら忘れ、雨に打たれながら呆然と丘の上のトラックを見上げている。
彼の震える唇からは、もはや反論の言葉は一つも出てこなかった。
進藤大尉は、全身の血が沸騰するような興奮を覚えながら、隣に立つ小さな少年を見下ろした。
雨に濡れ、黒髪を顔に貼り付かせた九条芳信は、泥だらけの丘を征服した自らの「作品」を見つめ、満足そうに息を吐いていた。
「……どうやら、合格のようですね、閣下」
芳信は振り返り、郷田に向けて冷ややかに言い放った。
「これで、軍馬の蹄をすべて退役させてもお釣りが来る。進藤大尉、次は……」
芳信は、泥だらけの自分の右手をギュッと握り締め、狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「次は、こいつの背中に『装甲』を載せてみようか。大砲を牽引するだけじゃない、弾雨の中を強行突破する、無敵の装甲兵員輸送車をね」
雨音と、遠くで響くディーゼルエンジンのアイドリング音だけが、帝国の新たな時代の幕開けを祝福するように鳴り続けていた。




