第十四話:昭和金融恐慌と、泥濘を喰らう六輪の獣
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昭和二年(一九二七年)三月。
帝都・東京の空は、低く垂れ込めた鉛色の雲に覆われていた。
春の訪れを告げるはずの風は、人々の絶望を孕んで冷たく吹き荒れ、街の至るところで「時代の終わり」を告げる悲鳴が上がっていた。
「銀行が潰れるぞ!」「俺たちの金を返せ!」
神田の街角。
ある銀行の前に押し寄せた群衆の怒号が、警官隊の制止を突き破って響き渡る。
『昭和金融恐慌』の勃発である。
大正バブルの崩壊から燻り続けていた不良債権という名の時限爆弾が、議会での不用意な失言を機に、ついにこの国を内側から爆破したのだ。
昨日まで価値のあった紙幣が、今日には薪の代わりにもならない。
人々は目に見えない「経済」という名の泥濘に足を取られ、国家という巨大な車体がコントロールを失い、断崖へとスピンしていくのをただ見守るしかなかった。
同じ頃、首相官邸の奥深く。
総理大臣の椅子に座る若槻礼次郎は、丸眼鏡を外し、深く刻まれた疲労の溝を両手で覆っていた。
「……枢密院が緊急勅令を否決した。これで我が内閣は終わりだ」
国家の血流が止まり、臓器が一つずつ壊死していくような感覚。
歴戦の政治家である彼でさえ、この未曾有の事態の前には無力だった。
だが、絶望の淵に沈む若槻の脳裏に、ふと、ある「怪物」の顔がよぎった。
二年前、自分に『道路特定財源』という悪魔的なインフラ支配の構想を吹き込んだ、あの冷徹な瞳を持つ七歳の子供。
「……いや、あそこだけは別だ。あの少年が創り上げた『帝国最強の心臓』だけは、この程度の恐慌で止まるはずがない……」
若槻の呟きは、誰にも届くことなく、冷え切った執務室の空気に溶けていった。
帝都の狂乱から多摩川を隔てた、川崎の広大な埋立地。
そこには、外の世界の絶望が嘘のように、冷徹なまでの秩序と異常な熱気を孕んだ「漆黒の要塞」がそびえ立っていた。
九条自動車工業・川崎メインプラント。
三菱の岩崎小弥太が巨額の資本を投じ、父・九条正和が華族の権力で政治的防壁を築き上げた、東洋一の自動車生産拠点。
ここでは、世界を揺るがす恐慌の足音など掻き消すほどの『鉄の咆哮』が鳴り響いていた。
「おい! 3番ラインの治具、クリアランスがコンマ一ミリ狂ってるぞ! 職人の魂をそこに叩き込め!」
油にまみれた作業着姿の主任技師・黒木伝蔵の声が、工場の喧騒を切り裂く。
かつては「手作業こそが至高」と信じていた職人たちは今や、芳信が考案した「治具」と「ライン生産方式」という名のシステムを血肉としていた。
同時に、機械では決して到達できない最終的な『組み付けの機微』を担う、世界最強の技術集団へと変貌を遂げていたのである。
一定の速度で動くコンベアの上を、強固なラダーフレームが流れ、サスペンションが組まれ、心臓部であるエンジンが次々とマウントされていく。
それは単なる工業製品の製造ではなかった。
血肉を持たない鋼鉄の部品たちが、一つの巨大な「生命」へと統合されていく神聖な儀式であった。
その狂気的とも言える光景を、工場全体を見渡せる高所のキャットウォークから見下ろす小さな影があった。
九条芳信、九歳。
学習院の制服ではなく、特注の小さな作業着を纏った彼の右手には、どれだけ洗っても落ちないエンジンオイルの染みが微かに残っている。
怜悧で大人びた瞳は、眼下で生み出される自らの「作品」たちを、まるで盤上の駒を眺めるチェスプレイヤーのように冷ややかに、しかし熱く見つめていた。
「……お怪我はありませんか、坊ちゃま。相変わらず、ここは恐ろしい音と熱ですね」
背後からかけられた声に、芳信は静かに振り返った。
白い割烹着姿の乳母、お菊が、可愛らしい風呂敷に包まれた弁当を抱えて立っていた。
油と鉄の匂いが充満するこの場所に、彼女の穏やかな微笑みはあまりに不釣り合いだった。
だが、お菊にとってここが地獄だろうと戦場だろうと関係なかった。
ここに「坊ちゃま」がいる、それだけが彼女の真実だった。
「ありがとう、お菊。でも気をつけて。ここは油断すれば命を持っていかれる場所だから」
芳信は年相応の丁寧な言葉で微笑みかけた。
前世の「車バカ」としての渇望と、九条家という重責に挟まれた彼にとって、お菊の前だけが唯一、人間としての呼吸を許される「心の安全地帯」だった。
「世間様は、銀行が潰れたとお祭り騒ぎでございますのに。ここは別の国のようでございますね」
「世間がどうなろうと、物流が止まることはないよ、お菊。むしろ、不景気になればなるほど、馬や人力車のような非効率な輸送手段は淘汰される。一度に大量の物資を、安く、確実に運べる『機械』が絶対に必要になるんだ」
芳信は手すりに身を乗り出し、眼下を見つめたまま言葉を継ぐ。
「恐慌なんてものは、古いシステムを焼き切るためのただの『負荷テスト』だ。弱い企業が潰れ、市場が焼け野原になった後、そこを独走できるのは……最も強靭な足腰とエンジンを持った奴だけだよ」
「相変わらず、背筋の凍るようなことを言う子供だ」
キャットウォークの階段を上がり、重い軍靴の音を響かせて現れたのは、陸軍大尉・進藤拓也だった。
眉間の皺は以前よりも深く、その軍服には極度の疲労と緊張が滲んでいる。
「進藤大尉。ずいぶんと顔色が悪いね。軍の予算も銀行と一緒に消えたかい?」
「……いや。若槻内閣はもはや風前の灯だが、陸軍の近代化予算だけは九条男爵の暗躍と三菱の猛烈な働きかけで死守された。むしろ、この不況下で雇用を生み出し、休むことなく稼働し続ける君の工場は、今や国家の生命線だ」
進藤は眼下を流れる九条型二号トラックの群れを見つめ、ゴクリと唾を呑み込んだ。
「……事態は動いている。国内の恐慌から目を逸らすためにも、資源の確保のためにも、遠からず大陸での動きが活発になる。フォードやシボレーの柔な足回りでは、あの極寒と泥濘の大地は走破できない。軍が求めているのは、現行の二号をさらに凌駕する、怪物のような走破性を持った『野戦の王』だ」
進藤の言葉に、芳信の瞳の奥で、ドロドロとした黒い炎が揺らめいた。
「進藤大尉。僕が、目先の需要だけでこのバカでかい工場を建てたとでも思っているのかい?」
「なに……?」
芳信はクルリと背を向け、キャットウォークの突き当たりにある、厳重に施錠された特別開発室の扉を指差した。
「黒木のおやっさんを呼んでくれ。お菊、弁当は後で食べるよ」
特別開発室の重い鉄扉が開かれる。
薄暗い照明の中、部屋の中央に鎮座していたのは、巨大な防水布に覆われた「異形の塊」だった。
息を切らせて駆けつけてきた黒木伝蔵が、ニヤリと汚れた顔を歪めて芳信に頷く。
「お披露目かい、坊ちゃん」
「ああ。世界に、僕らの新しい『基準』を叩きつける時だ」
芳信が布の端を掴み、一気に引き摺り下ろす。
バサァッ!
現れたのは、これまでの「自動車」の概念を根底から覆す、無骨で巨大な鋼鉄の獣だった。
極太のラダーフレーム。
ハンス・シュミットと共に開発したカーボンブラック配合の分厚い強化タイヤ。
助長するように進藤を戦慄させたのは、その足回りだった。
「な、なんだこれは……車輪が、後ろに四つ……合計『六輪』だと……!?」
「九条型・六輪駆動試作車。悪路における接地面積を倍増させ、トラクションの抜けを完全に封殺する。そして、こいつに搭載するのは、大衆車用の直列四気筒なんかじゃない」
芳信は、艶やかな黒髪を揺らしながら、油に汚れた右手で、巨大なシリンダーヘッドを愛おしそうに撫でた。
「新開発の『ディーゼルエンジン』。ガソリンとは次元の違う、圧倒的なトルクの塊だ」
「ディ、ディーゼル……?」
進藤はその言葉に絶句した。
軍艦や巨大な定置用機関としてはともかく、自動車に積めるほど小型化された実用的なディーゼル機関など、当時の日本では夢物語に等しい。
「大陸の泥濘? 凍土? 笑わせるな。道がないなら、こいつが踏み荒らした跡を道にする。軽油でも、最悪は粗悪な重油でも文句を言わずに燃やし尽くす。フォードが百台束になっても勝てない、僕の新しいおもちゃだ」
狂気だ、と進藤は確信した。
目の前にいるのは、わずか九歳の少年だ。
しかし、彼が創り出したこの「鉄の獣」は、間違いなく世界の軍事バランスを塗り替え、国家の運命すら強引に牽引する力を持っている。
「さあ、心臓を動かそうか、おやっさん。世界が立ち止まって絶望している間に、僕たちは次の時代へブーストをかけるんだ」
芳信の合図で、黒木がクランクを回し、特注のスターターを起動する。
ドドドドォォォォンッ!!
腹の底を直接揺さぶるような、狂暴で、しかし完璧に調律された重低音。
それは、不況と停滞に沈む昭和の日本を叩き起こし、やがて来る激動の時代すらも自らの燃料として喰らい尽くそうとする、若き支配者の高らかな「咆哮」であった。




