第十三話:大正の黄昏、昭和の鼓動
一九二六年(大正十五年)十二月二十五日。
深く垂れ込めた冬の雲が、帝都・東京の空を鉛色に染め上げていた。
その日の未明、葉山御用邸において大正天皇が崩御され、長きにわたった「大正」という時代が静かにその幕を下ろした。
街には号外が飛び交い、人々は足を止めて、一つの時代の終わりと、新しき「昭和」の幕開けを告げる言葉を複雑な面持ちで読み耽っていた。
九条技術研究所の屋上で、俺は冷たい風に吹かれながら、急速に近代化を遂げつつある東京のパノラマを見下ろしていた。
震災の瓦礫に覆われていた三年前の景色は、今や見る影もない。
俺が若槻大臣を説得して敷かせた「黒い道」は、銀座から帝都の隅々へと毛細血管のように広がり、その上を、九条自動車工業のエンブレムを輝かせた車両たちが絶え間なく往来している。
「……終わったな、大正が」
背後で足音がし、父・正和が厚手の外套を羽織って隣に立った。
その手には、先程届いたばかりの、三菱の岩崎社長からの親書が握られている。
「ああ。だが、本当の戦いが始まるのはこれからだ、父さん」
俺は視線を街から外さず、小さく答えた。
この八年。
俺は前世の記憶という「未来の地図」を頼りに、狂気とも呼べる速度で土台を築き上げてきた。
陸軍への制式採用による盤石な需要の確保。
三菱財閥との強固な資本提携と、川崎に建設中の東洋最大を誇る量産工場。
そして、道路特定財源という、自動車産業が自己増殖的に拡大するための法的な心臓部。
一介の男爵家の次男坊として生まれた俺が、今や日本の重工業の舵取りを左右する存在となり、国家の法制度すらも動かしている。
「芳信。お前が三年前、あの焼け跡で『最高の車を造る』と言った時、私は正直に言えば、幼子の他愛もない夢だと思っていた」
父は遠い目で、皇居の方角を見つめた。
「だが、お前は本当に成し遂げた。この国に、馬車ではなくエンジンの鼓動を植え付けた。……お前は、この昭和という新しい時代を、どこまで加速させるつもりだ?」
「加速なんて言葉じゃ足りないよ。俺は、この国を世界一の工業国家に作り替える。アメリカや欧州に追いつくなんて目標は、もう古い。彼らが背中を見失うほどの速度で、日本を未来へ連れて行く」
俺の言葉に、父は少しだけ寂しそうに、しかし誇らしげに微笑んだ。
「お前なら、本当にやってのけるだろうな。……さあ、降りよう。静子や秀一、華子も待っている。今夜は家族で、静かに新しい時代を迎えようじゃないか」
俺は父に頷き、最後に一度だけ、眼下に広がる黒い道を見つめた。
そこには、俺が造り出した「九条型一号車」が、ヘッドライトの明かりで暗闇を切り裂きながら、力強く走り抜けていく姿があった。
その光は、まるで激動の昭和を照らす希望の灯火のように見えた。
翌一九二七年(昭和二年)。
元号が変わり、世界は未曾有の恐慌の足音を聞き始めていた。
だが、川崎の地では、数千人の工員たちが巨大な工場の建設に従事し、溶鉱炉の熱気が冬の寒さを吹き飛ばしていた。
俺のノートには、過給機、ディーゼルエンジン、流線型ボディ、さらには航空機の翼の断面図までが、緻密に描き込まれている。
次に始まるのは、世界という名のサーキットでの、命懸けのレースだ。
俺は前世で手に届かなかった「理想の極致」を求めて、アクセルをさらに深く踏み込む。
「昭和」という、かつて俺が知っていた歴史よりも遥かに速く、遥かに強固な「もう一つの日本」を造り上げるために。
九条芳信、八歳。
史上最年少の工業王の伝説は、ここから、真の加速を開始する。
(第一章・完)
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