第十二話:財閥の羅針盤と、鉄の巨龍
一九二六年(大正十五年)秋。
丸の内にある三菱合資会社の本社ビル、その最上階に位置する社長室からは、急速に姿を変えつつある帝都の街並みが一望できた。
私、岩崎小弥太は、マホガニーの重厚なデスクの上に広げられた数々の報告書に目を通し、深く、そして熱を帯びたため息を漏らした。
報告書の束は、大きく三つの束に分かれている。
一つは、品川に間借りさせた「九条自動車工業・第一工場」からの、常軌を逸した生産と納入の実績報告。
二つ目は、私が極秘裏に組織し、南方や中東へと派遣した「三菱石油資源調査団」からの、油田権益確保に向けた泥臭い交渉の進捗。
そして三つ目は、若槻内務大臣の肝煎りで可決される見通しとなった「道路特定財源」による、全国的なアスファルト舗装工事の入札計画である。
「……信じられん。我々三菱という巨大な船が、たった一人の子供の描いた海図に従って、全速力で舵を切っている」
私は葉巻の煙を燻らせながら、自らの下した決断の恐ろしさと、それに伴う抑えきれない高揚感を噛み締めていた。
事の始まりは一年前、九条男爵が次男の芳信を連れてこの部屋を訪れた時だ。
当時の日本の資本家にとって、自動車産業などというのは、欧米の巨大資本が支配する「絶対に勝てない博打」でしかなかった。
社内の重役たちも、銀行部門も、造船部門も、皆一様に九条の提案を「名士の道楽」と切り捨て、莫大な設備投資を拒絶した。
私自身も、最初はそう思っていた。
だが、あの中庭で、芳信の運転する「九条型一号車」の後部座席に乗せられた瞬間に、すべてが変わった。
あの圧倒的な加速、荒れた石畳を舐めるように走る異次元の安定感。
あれは馬車の延長線上にある乗り物ではなく、大地を制圧するための「鉄の戦艦」であった。
そして何より私を震え上がらせたのは、芳信が提示した「車を売り、道を造らせ、燃料で儲ける」という、国家の重工業全体を巻き込む巨大なエコシステムの構想だった。
自動車という単なる商品ではなく、それに付随するインフラとエネルギーのすべてを三菱の権益で囲い込む。
七歳の子供が、世界の血流を支配するための完璧な絵図面を引いてみせたのだ。
「社長。川崎の臨海部に予定している『完全新工場』の用地買収、および埋め立て工事の算段がつきました」
ノックの音と共に現れた秘書が、新たな書類を机に置いた。
「ご苦労。……社内の反発は、完全に消えたか」
「はい。春の習志野演習場にて、九条の車がフォードを完膚なきまでに叩き潰したという事実が、すべての疑念を沈黙させました。現在、品川の工場は陸軍の需要を独占し、恐ろしいペースで利益を吐き出し続けております」
「だろうな。あの車を見せられて、なおフォードを買おうとする馬鹿は軍にはおらんよ」
私は書類に力強くサインを書き込み、立ち上がった。
「午後から、川崎の予定地を視察する。車を用意したまえ」
「かしこまりました。……それと、視察地にて、九条男爵と芳信君が合流を希望されておりますが」
「構わん。あの怪物には、新しい遊び場を早く見せてやらねばな」
数時間後、私は東京湾の潮風が吹き荒れる川崎の広大な埋立地に立っていた。
見渡す限りの荒涼とした空き地。
だが、私にはすでに、ここに無数のクレーンが立ち並び、巨大な煙突が黒煙を吐き、一日に数千台もの自動車を吐き出す世界最大の工場の姿が幻視できていた。
「お待たせいたしました、岩崎社長」
背後から聞こえた声に振り返ると、品川から駆けつけてきた九条親子の姿があった。
芳信は、見慣れた軍用車両ではなく、車高が低く、滑らかな流線型のボディを持った見慣れない黒塗りの車から降りてきた。
「芳信君。それは、新型かね?」
私が興味深そうに尋ねると、芳信は怜悧な瞳に純粋な熱を宿して頷いた。
「はい。軍用の武骨なシャシーをベースにしていますが、民間向けに再設計した密閉型のセダンです。雨風を完全に凌ぎ、車内はホテルのラウンジのように静かですよ」
「ほう。品川のラインをフル稼働させながら、すでに次の手の開発を終えているというわけか」
「現状に満足して立ち止まるつもりはありません。それに、今日ここへ来たのは、このセダンを見せるためだけではありません」
芳信は荒涼とした埋立地を見渡し、両手を広げた。
「岩崎社長。この広大な土地なら、僕の思い描く巨大なラインが完璧に収まります。ですが、ここで造るのはガソリンエンジンだけではありません」
芳信の口調が、無邪気な子供のものから、冷徹な支配者のそれへと変わる。
「三菱の得意とする造船、そしてこれから必ず来るであろう航空機の時代。それらを動かすための、巨大で高効率なディーゼルエンジン、さらには空を飛ぶための航空エンジンの開発拠点も、この川崎工場に組み込んでいただきます」
私は海風に打たれながら、思わず息を呑んだ。
自動車という地上を這う機械の覇権を握ったばかりだというのに、この少年の目はすでに、大海原と大空の支配すらも見据えている。
「……芳信君。君は、日本の重工業のすべてを、自分の思い通りに動かすつもりか。三菱という財閥すらも、君の描く設計図の歯車の一つに過ぎないと言うのかね」
私の問いに、芳信は少しだけ首を傾げ、悪戯っぽく笑った。
「三菱を歯車だなんて思っていませんよ。三菱は、僕の車を動かすための『最高級のガソリン』です。岩崎社長が最高の燃料を注いでくれるなら、僕は三菱というエンジンを、世界一の出力で回してみせます」
傲慢で、狂気じみていて、それでいて一切の反論を許さない圧倒的な自信。
資本家としての冷徹な理性が、これ以上この怪物に深入りするのは危険だと警鐘を鳴らしている。
だが、私の内にある勝負師としての血は、この狂熱に身を投じてみたいという強烈な欲望に沸き立っていた。
「……ふはははは! 言ったな、芳信君。よかろう、三菱の全資本を君の狂気に注ぎ込んでやる!」
私は海風に向かって、腹の底から笑い声を上げた。
「造船も、航空機も、すべて君の設計した心臓で動かしてみせろ! アメリカの巨大資本どもが腰を抜かすような、東洋一の工業帝国を、この川崎の地に造り上げようではないか!」
「ええ。期待していてください、岩崎社長。僕のロードマップは、まだ始まったばかりですから」
芳信は小さな手を差し出し、私はその油まみれの手を、財閥のトップとしての全霊の力で握り返した。
大正という時代が、静かに終わりを告げようとしている。
だが、私とこの小さな怪物が歩む黒い道は、これから始まる激動の昭和という時代を、誰よりも速く、どこまでも獰猛に駆け抜けていくことを、私は確信していた。
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